2003年マラウイへの旅01 マラウイ共和国とは
新シリーズ、「2003年マラウイの旅」の連載を始めます。題名の通り、2003年12月25日から2004年1月3日にかけて訪れた、アフリカ南東部のマラウイ共和国への旅の記録です。旅行からすでに3年以上経過しており、写真と記憶に頼っての旅行記となりますので、あいまいな点や、思い違いなども出てくるかと思いますが、ご容赦ください。
初回は、マラウイという殆どの人にとっては聞き慣れない国について紹介しましょう。マラウイはアフリカ南部の内陸国で、タンザニア、モザンビーク、ザンビアと国境を接しています。国土は南北に細長く、南緯9-17度ぐらいに位置しており、オーストラリア北部、南米ペルーのリマあたりが同緯度になります。経度で見るとエジプトのシナイ半島あたりと同じになります。国土の大きな部分をマラウイ湖(ニヤサ湖)が占めており、これはアフリカ大陸を南北に貫く大地溝帯の南端に当たります。
気候は地域によってやや異なります。マラウイ湖沿岸部や南部の標高の低い地域は非常に高温多湿ですが、高原地帯は湿気も少なく過ごしやすいようです。人口は1200万人程度と推計されており、HIV/AIDSの猛威のため平均寿命は40才未満となっています。
マラウイという国名は16世紀に栄えたマラビ王国に由来しているそうです。17世紀にポルトガルのイエズス会宣教師や、アラブの奴隷商人がやってきます。1859年にスコットランドの宣教師で探検家のリビングストンがマラウイ湖に到達しています。マラウイ南部の商業都市ブランタイヤは彼の生まれ故郷の町の名前にちなんでいます。1883年にはイギリス領事が駐在。その後アラブの奴隷商人やポルトガルとの勢力争いを経て、1891年にイギリスの保護領ニヤサランドとなっています。1953年にローデシア・ニヤサランド連邦結成。1963年にニヤサランド自治政府樹立。1964年7月6日に独立を果たしマラウイ共和国となりました。
マラウイには中部にある首都リロングウェと南部のブランタイヤに国際空港があり、ケニアのナイロビ、タンザニアのダルエスサラーム、ザンビアのルサカ、ジンバブエのハラレ、南アフリカのヨハネスブルグ、アラブ首長国連邦のドバイなどとの間に国際線が発着しています。日本からマラウイを訪れる場合、香港、ヨハネスブルグ経由で行くのが一般的だと思います。(エアマラウイのドバイ便は週2便のみです。)
マラウイで広く使われているのはチェワ語です。スワヒリ語と同じバンツー語系の言語です。他にも民族の言葉がいくつかあり、タンザニアに近い北部の一部ではスワヒリ語も通じるようです。イギリスの植民地であった関係もあり、普通の人でも結構英語を話せます。チェワ語で、ありがとうはジコモといいます。何だか可愛い響きの言葉なので気に入っています。
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