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2008年1月24日 (木)

カンボジアの旅41 トゥールスレン博物館(2) 拷問と虐殺の収容所S21

2007年9月26日(水)
Img_2072 プリンセスホテルから南に1kmほど走り、8時15分にトゥールスレン博物館 Tuol Sleng Museum に到着。博物館のパンフレットによると、Tuol とは周囲より盛り上がった場所。Slengとは、毒の有るとか、罪を生むと言った形容詞としての意味と、毒を持つ2種類の植物を指す名詞としての意味があるとの事。一日の来館者は50名ぐらいだそうだ。意外と少ない。

 収容所S-21が作られたのは、クメールルージュがプノンペンを陥落させた翌年、1976年5月。SはSecurityの頭文字。反体制派を捕え、拷問した後皆殺しにするために作られた施設である。もともとハイスクールの校舎として使われていた建物を改造したものだ。敷地は600×400m。収容者の脱走防止のため周壁は鉄板で補強され、有刺鉄線には電流が流された。

Img_2074  中庭を囲んで4つの建物(元校舎)が建てられており、ビルディングA、B、C、Dと呼ばれている。中庭には虐殺犠牲者の墓が作られている。

Img_2076  最初に訪れたビルディングAは拷問のために使われた建物である。窓には鉄格子がはめられている。部屋の中にはベッドが1つ置かれている。その上には足枷と、四角い鉄製の箱が置かれている。この箱は便器なのだそうだ。壁には拷問で亡くなった犠牲者の写真が掲げられている。かなりショッキングな写真だ。Documentation Center of Cambodia のサイトに、博物館に展示されていた虐殺された人々の写真が掲載されているが、気の弱い人は見ない方がよいだろう。

Img_2077   ビルディングAとBの間の角の所にはもともと学校で運動に使われていた門柱のような物が立っており、その下には瓶が2つ置かれている。横には THE GALLOWS (絞首台) と書かれた看板が立てられている。実際に行われていたのは絞首よりも更に残酷な行為である。

 犠牲者は両手を後ろで縛られ、逆さ吊りにされ拷問された。犠牲者が意識を失うと、吊っている紐を緩めて、汚物の入った瓶に頭から入れた。こうして意識を取り戻させてまた逆さ吊りにして再び拷問を続けたというのである。

Img_2080 Img_2081  ビルディングBには、足枷やポルポトの像、キリングフィールドで発掘されたおびただしい人骨の写真に加え、犠牲者の顔写真が展示されている。

Chair

 収容された人々は首から番号札を下げさせられ、手を後ろに縛られた状態で顔写真を撮られた。写真撮影を効率よく行うため撮影用の椅子が作られ た。椅子に座ると後頭部に細い棒が突きつけられ、強制的に顔を正面に向けさせる構造になっている。(写真は博物館のパンフレットから) 調書を取られた後、衣類を脱がされ所持品を全て取られた。女性は髪を短く切られた。それから 独房の中に押し込められ、足枷をはめられたのである。

Img_2082  ビルディングCは独房として使われていた。脱走と自殺防止のため建物の通路部分は全て鉄の網で覆われている。

 ここに収容された人は、10499人に及ぶ。(この数字に子供は含まれていない。) 常時1200~1500人が収容され、収容期間は2-4ヶ月 であったという。その中で生き残った者は僅かに7名だったそうだ。なおカンボジア全土ではクメールルージュによって350万人もの人々が殺されたという。

Img_2086 教室の内部は0.8×2mに仕切られている。隣の部屋との間の壁は監視の便利の目的で穴が開けられている。

Img_2084  収容者たちはこの狭いスペースで毎日を過ごした。着衣はパンツだけ。毛布やマットなどの寝具や蚊帳は一切与えられず、床に直接寝ていたという。

 毎朝4時半に起こされ、パンツを脱がされて身体検査をされた。その後体操をさせられたがその間も足枷はつけたまま。小便はプラスチックのバケツに、大便は写真に写っている鉄の箱の中にさせられた。入浴などは無く、数日に一回水を浴びるだけ。不潔な環境で病気になるものも多かったが、治療を受けることもできなかった。

Img_2087  ビルディングDには拷問に使われた道具や拷問を様子を描いた絵などが展示されていた。叩いたり殴ったり、電撃を与えたりといった方法以外にも、生爪を剥がしてそこにアルコールを塗るとか、女性の乳首をペンチで引き抜くとか、本当に考えられないような残酷な行為が行われていた事を知り身の毛がよだつ。S-21の守衛の中には、クメールルージュによって洗脳された10-15才の男女が使われた。彼らが最も残虐であったという。

 収容された人々の大多数はカンボジア人だったが、ベトナム、ラオス、タイ、インド、パキスタン、イギリス、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアなどの人々も含まれていた。職業は多岐にわたり、労働者、農家、エンジニアに始まり、知識人、大学教授、教員、学生、更には大臣や外交官まで含まれていた。ポルポトはかつての革命の同志も自分の地位を脅かす恐れがあると考え、捕らえて虐殺した。また、生き残った血縁者は、恨みを持ち、いずれ体制の敵になると考え、一族の全員、生まれたばかりの赤ちゃんまでも捕えて皆殺しにしたのである。

 気がつくと1時間以上が経っていた。やりきれない思いに押しつぶされそうになるが、やはりカンボジアの今を少しでも理解するためには、一度は訪れなければいけない場所であろう。

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