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2009年2月16日 (月)

「スワヒリ都市の盛衰」を読んだ

 2006年のタンザニア旅行でお世話になった、Japan Tanzania Tours (JATAツアーズ) 様では、メールマガジン「メール★BARAKA」を発行しています。その105号の中で、「スワヒリ都市の盛衰」という本が紹介されていました。スワヒリ語に親しむ人間としては、是非とも読んでおきたいと思い、早速購入しました。本文わずか87ページの薄い本ですが、内容はとても充実しています。

 タンザニア旅行の時、ザンジバル島ストーンタウンの驚嘆の家を訪れました。博物館の見学の中で、この地域とアラブ、インド、ポルトガル、イギリスといった諸国との関係について学び、スワヒリ語に取り込まれている外来語も、古くはアラビア語から、そしてその後ポルトガル語、そして英語と変遷してきた事など、多少は知識として持っていたつもりでしたが、頭の中はきちんと整理できていませんでした。

 スワヒリとは、アラビア語で海岸を意味するサワーヒルが転じたもの。東アフリカの沿岸地域の総称です。植民地化によってアフリカ諸国の現在の国境が定められるよりももっともっと古くから、交易を中心として多くの都市群が発展していました。インド洋地域とスワヒリ都市との交易の歴史は古く紀元前後にさかのぼる事ができるそうです。この頃から、アラブのイスラム世界やインド亜大陸との交流や、人種の融合が進んでいたそうです。ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインド洋に現れたのは、15世紀末。オマーンによるポルトガルの駆逐が17世紀末。19世紀から欧米諸国の進出が本格的になり、19世紀末には植民地支配による東アフリカの分割が行われます。現在の東アフリカ諸国の国境はこの時に各国の都合で決められた物を引きずっているのです。イタリア領ソマリランドがソマリアに、イギリス領東アフリカがケニアに、ドイツ領東アフリカがタンガニーカに、ポルトガル領東アフリカがモザンビークにといった具合です。イギリスの保護領となっていたザンジバル島は、1963年にアラブ系の政権により独立をした後、1964年にアフリカ人勢力による革命を経て、タンガニーカと合併してタンザニア連合共和国となりました。

 欧米諸国が東アフリカに至るはるか前から、奴隷貿易は行われていました。奴隷を集めたのは同じ黒人の首長たち。奴隷をアラブやインドに売り渡したのは同じアフリカ人であるスワヒリ商人でした。そう考えると、現在のタンザニア連合共和国はかつて奴隷に取られた側と、売り渡した奴隷商人側が合流して、奴隷商人側の言葉である「スワヒリ語」を国語として成り立っているという、なかなか複雑な背景がある事がわかりました。

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