カテゴリー「私とパソコン」の14件の記事

2015年1月 7日 (水)

ThinkPad X1 carbon モデルチェンジでキーボードが先祖返り

 560、315D、600、S21、R40e、Z61P、T410s、Tablet 2と ThinkPadを使い続けてはや19年目になります。他社製のデスクトップマシンにも、キーボードだけは ThinkPadと同じものを購入して使用しています。

 現在私の使っているメインマシンは、新しいX1 Carbon (すなわち第2世代)です。老眼が進みつつあるにもかかわらず無謀にも2560*1440ドットの高解像度ディスプレイに惹かれて使っているのですが、軽いしバッテリーの持続も良いのでその点は大変快適。唯一ちょっと困っているのがキーボードです。

 ThinkPadのキーボード配列もこの数年で7段から6段になり配列も変わってきました。更に、第2世代X1 Carbonのキーボードでは、ファンクションキーがタッチで表示が切り替わる Adaptive Keyboardとなっていて、5段に減った物理キーの配列も大きく変更になっているのです。

 入力していて特に気になるのが「漢字」キーが従来の「英数」キーの場所に、CTRLキーが従来のFnキーの場所に入れ替わっている点。トラックポイントのボタンもトラックパッドの上部に一体化されていますが、これもクリックする手応えが硬い上ボタンの位置が従来と比べると微妙に外側に寄っているため、どうにもなれるのに時間がかかっていました。また、「やまぶきR」を利用しての親指シフト入力時に親指シフトキーとして頻用する「無変換」・「変換」キーも小さくなってしまっていますが、こちらは配置場所が良い感じで親指の真下にあるため、入力時の違和感はあまりありません。

 なお、職場のDELLのデスクトップには7段のUSBトラックポイントキーボード、ThinkPad Tablet 2には、6段のBluetooth トラックポイントキーボードを組み合わせて使っており、それぞれが微妙に配列が異なっていますが、この2種類のキーボードの使い分けにはあまり苦労を感じていません。この2種類と、X1 Carbonを併用していると、しばしばCTRLとFnの打鍵間違いに悩まされます。

 Adaptive Keyboardは、使用しているアプリケーションによって4パターンに切り替わるのが売りなのですが、実はこれが今ひとつ便利には使えないのです。Skypeで遠隔会議に参加している時、バックグラウンドでSkypeを、フォアグラウンドでIEやExcelを起動しておりますと、結局Adaptive Keyboardは Web Conferenceモードから FunctionやWeb Browserモードに切り替わってしまい、マイクのオンオフをキーボードから一発でしようとしてもできないのです。うーん。IE上で動く Web会議を使っている時も、やはり Web Browserモードになるのでマイクのオンオフが使えません。

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 2015 International CES にて、Lenovo ThinkPad X1 Carbon の第3世代モデルが発表されました。なんとキーボードが6段タイプに戻り、Adaptive Keyboardは廃止。トラックポイントのボタンもトラックパッドとは別体に戻っています。やはり第2世代X1 Carbon のキーボードは評判が悪かったのでしょうか。日本語キーボードの配列はまだ明らかになっていませんが…。新型のキーボードパーツを第2世代に使えるのであれば自前で換装してしまいたいものですが、キーボード周りのパネルの形状が異なるのでさすがに難しそうに見えます。残念です。

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2012年4月16日 (月)

私とパソコン13 親指シフト入力と、Japanist

 すっかりシリーズ記事の更新が止まっていた「私とパソコン」。最終更新は2008年10月でしたから、随分ご無沙汰です。連載再開では無いけれど、無理無理シリーズに続けてみました。
 平成元年大学を卒業。パソコンをFM77AV40EXから、FM-TOWNSに買い換えました。この時以前から興味があった親指シフトキーボードモデルを購入…したのはいいものの。
 親指シフトとは富士通が開発した日本語入力のためのキーボード配列です。左右の親指キーを併用する事で、キーボードの3段で全ての仮名が濁音なども含めて入力できるようにしたもので、個々の指の守備範囲が少なく、少ないストローク数で日本語を入力できる特徴があります。とはいえ、その配列は非常に特殊であり、慣れるまでは数週間のトレーニングを要しました。一度覚えてしまえば、大変高速にタイピングができ、会議のメモをリアルタイムにとる事も楽勝なのです。
 しかし、その後親指シフトはあまり普及する事はありませんでした。ノートパソコンを主体に使うようになると、親指シフトキーボードを搭載したモデルは、富士通が出す少数機種だけとなりました。幸いIBM ThinkPadのキーボードは変換・無変換キーの位置が絶妙で、親指シフトエミュレーターの「親指ひゅん」といったソフトを使うと、快適に親指シフト入力が可能でした。
 富士通の日本語入力FEP(今はIMEと言いますが)は、OAKという名前で、富士通製のパソコンやワードプロセッサー OASYS に標準搭載されていましたが、2001年頃に Japanist と名前を変え、予測変換と、親指シフトエミュレーションを目玉機能として発売されました。それ以来ずっと使っていますが、最終版はなんと2003年2月に発売された Japanist 2003 で、その後はバージョンアップも止まってしまいました。しかしこれが親指シフト派にとっては最後の頼みの綱となっていました。
 2010年。ThinkPad T410sを購入したときに、深く考えずにOSを Windows7 64ビット版にしてしまいました。所が…。64ビットアプリでは Japanist が使えないのです。泣く泣くローマ字入力する羽目になってしまいました。2003年に発売したソフトです。まだ売っているのが不思議なぐらいで、今更対応は望めないだろうと諦めていました。
 ところがです。昨年になって 64ビット対応版(体験版)がリリースされ、ついに2012年3月30日に、正式に64ビット対応のためのアップデートがリリースされました。おかげで、今も入力は快適です。9年前に発売したソフトウエアを見捨てずサポートしてくれる事はありがたいです。(それぐらい親指シフトユーザーからの要望が強かったのでしょう。) でも、メジャーバージョンアップはやっぱりもう無いのでしょうね。

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2008年10月 4日 (土)

私とパソコン12 漢字ROMと単漢字変換

(昭和58年頃のお話)

 FM-7にはオプション増設スロットが3つついていました。キーボードの奥側にある黄色いカバーを外すと、その下に隠れています。比較的容易に奪着できる場所です。前回話題にした5インチフロッピーディスクドライブのインターフェースカードもここに装着しました。

 重要なオプションに漢字ROMというのがありました。JIS第一水準の漢字の16×16ドットのパターンデータが収録されている物です。これを使うと画面に漢字を表示する事ができるのですが、実はこれがなかなか大変です。

 FM-7では(というか当時の8ビットパソコンでは)漢字を含む2バイト系のキャラクターは文字として扱うことができませんでした。表示する時は、F-BASICのKSYMBOLという関数を使ってグラフィックスとして表示します。表示する漢字を選ぶためには、音読み順に並んでいる漢字コード表を見て、該当するコードをKSYMBOL文のパラメーターとして記述していきます。これがなかなか骨が折れる作業です。1行分の漢字コードを拾いだすだけで小一時間を費やしてしまいます。

 そんな苦労を軽減するために、誰かが単漢字変換を考え出しました。音読みを入れると該当する漢字が一覧表示され、その中から入力したい文字を選択するというものです。プログラムを解析してみると、音読みのデータに続いて、該当する漢字コードがリストアップされています。これが単漢字辞書というわけです。これを作るだけでも相当な労力だったでしょう。

 パソコン雑誌に掲載された、単漢字変換日本語ワードプロセッサーのプログラムと、8ドットプリンタで16ドット印刷を実現する半ドットずらしテクニックのおかげで、文書をコンピュータで作成するという事がほどほど実用的にできるようになりました。

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2008年9月27日 (土)

私とパソコン11 5インチフロッピーディスクドライブ

(昭和59年頃のお話)

 大学1年の時は、食費を削って国鉄乗り潰しの交通費や、パソコン関連の消耗品などを購入に充てていましたので、入学以降5kg近く痩せるなどあまり健康的ではなかったかもしれません。

 さて、FM-7で色々とプログラミングを組んでいると、どうしてもデータレコーダーの遅さが気になって仕方ありません。コンピュータの電源を入れて、まずプログラムを読み込むのに数分。作りかけのプログラムを保存するのにまた数分。その間に何度もお茶が飲めてしまいます。とはいえ、5インチフロッピーディスクドライブは2ドライブタイプで純正品は20万円近い値段であり、サードパーティーの物でも15万円ぐらいだったと思います。FM-7本体が12万6千円だったわけですから、いかに高価な周辺機器だったかよく分かります。

 それでもどうにも我慢ならず、富士通純正のシングルドライブタイプの5インチフロッピーディスクドライブを購入する事にしました。10万円ぐらいだったと思います。この時はシングルドライブでも基本的に困ることは無かったのです。何はともあれこれでますます食費を削らなくてはなりません。

 この頃は周辺機器を買おうと思ったら、秋葉原に行くのが通常でした。(宇都宮に出ても売っているお店がありませんでした。)栃木県から2時間近くかけて買い出しに行き、何軒か店を回って一番安い所で購入するのです。お店の情報収集にはパソコン雑誌の広告が役立ちました。

 購入したフロッピードライブの箱を手に提げて、S君を尋ねて大岡山の東京工大を訪れました。高校の時に一緒にパソコン店に通っていた仲間は、何故か殆どが理工系に進みませんでしたが、S君だけが工学部に入学していました。ロボット研究会に所属して楽しそうにやっていました。会話の話題はますますマニアックに。

 これを書きながらS君はその後どうしているだろうかと思って、Googleで検索してみたらあっさりヒット。大学院大学 の情報科学研究科准教授になっていました。ソフトウェア工学の道を究めています。さすがだなあ。

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2008年9月20日 (土)

私とパソコン10 FORTRAN

(昭和58年ごろのお話)

 大学1年の教養系の講義の中に、情報処理実習がありました。まだ業務用にパーソナルコンピューターが普及する前の時代です。大学のコンピュータ室には大型のコンピュータが設置してあって、そこに複数の端末機が接続してありました。外部記憶装置としては磁気テープが使われており、プログラムを読み込ませるのにはパンチカードも利用されていたような気がします。

 この講義で教わったのは FORTRAN という言語です。FORTRANはBASICと同じように、コンピュータに実行させるプログラムを記述する言語です。大型コンピュータ向けには COBOL というプログラム言語も普及していました。FORTRANは科学技術分野で、COBOLは事務処理の分野で主に使われていたそうです。私は COBOL は使った事が無いのですが。

 さて実習内容は、FORTRANでプログラムを組んでみようという物だったと思います。が、まあ既にパソコンに馴染んでいる者にとっては、慣れたBASICを使って自分のパソコンでプログラミングする方がよっぽどいろいろな事ができますし、パソコンに触れたことが無い人にとっては、いきなりプログラムを書けと言われても全くどうしようもありません。

 そんなわけでこの実習、あまり誰の興味をひく事も無く終わってしまったのでした。

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2008年9月13日 (土)

私とパソコン09 ドットインパクトプリンタとデータレコーダ

(昭和58年頃のお話)
 FM-7の本体と同時に購入した周辺機器は、

  1. カラーディスプレイ
  2. ドットインパクトプリンタ
  3. データレコーダ

です。

 カラーディスプレイが何インチだったか忘れてしまいましたが、表示解像度は640×200ドットで、横に比べて縦方向が粗いのが難点でした。カラーといっても表示できるのはたったの8色で、黒、青、赤、緑、紫、水色、黄色、白でした。

 ドットインパクトプリンタは今でも業務用に生き残っていますが、見たことが無い人も多いかもしれません。金属性のヘッドを動かして、インクリボンを紙に叩きつけて印字するプリンタです。この時購入したのは、確かEPSONのMP-80という8ドットのプリンタです。全てをグラフィックスとして印刷する今のプリンタと違って1文字ずつコードを送って、8×8ドットで構成された文字パターンを印字する制御になっていました。半角英数字と半角カタカナだけが使用できました。

 FM-7にはJIS第一水準の漢字を16×16ドットのパターンで収録したオプションの「漢字ROM」がありましたが、これをグラフィックスデータにしてプリンタで出力すると、普通の半角文字の4倍の大きさになってしまいます。何とか実用的な大きさで漢字を印刷するために、後に「半ドットずらし」という制御方法が開発され、8ドットのプリンタでもまあまあ実用的な印刷物を作る事ができるようになりました。

 外部記憶装置として、当時ビジネスで一般的だったのは8インチフロッピーディスクでした。しかし8インチディスクはあまりに大きいので、小型サイズの5インチフロッピーディスクがパソコン用には普及しつつありました。とはいえ、フロッピーディスクドライブはFM-7本体よりも高い物でしたので、ホビーユーザーにはおいそれと手を出せる物ではありませんでした。代わりに使われていたのが、音楽用と同じカセットテープです。データレコーダーと呼ばれる専用のカセットデッキをパソコンに接続して、データを音に変換して記録したのです。その記録速度は800-1600BPS程度(bit per second)だったと思います。プログラムの1文字が8ビットなので、一秒で100-200文字程度記録できました。長いプログラムの読み書きには数分以上を要します。

 データはカセットテープの任意の場所に書き込むことができますが、一本のテープに複数のプログラムを記録した時は、頭出しをしなければなりません。長いテープでは扱いが面倒なので、パソコンショップでは、データ記録用の片面5分とかの短いカセットテープが販売されていました。

 市販のゲームソフトも主力はカセットテープでした。アドベンチャーゲームなどでは、場面をクリアする毎にデータレコーダーから次の場面を数十秒から数分かけてロードするので、それはそれはのんびりした展開でした。ゲームオーバーになると、テープを巻き戻して最初からロードし直させられたりして…。

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2008年9月 6日 (土)

私とパソコン08 富士通マイクロ7(FM-7)の登場

(昭和58年頃のお話)
 高校3年生になってからパソコンの世界にどっぷりと足を踏み入れてしまい、多くの時間をプログラミングに費やしていましたが、それでも何故か無事に大学に入学する事ができました。それも何故か、電子工学ではなく、医学部に…。エニックスのコンテストに落選したので、プログラマ畑に足を踏み外さずに済んだのかもしれません。

 自治医科大学の特異なスタイルの入試問題に救われた面も大きかったようです。特に二次試験の英語小論文…お題は何と「東北新幹線」でした。おかげで、同期は私を含め鉄道好きがやたらと多くなってしまいました。沖縄県出身の学生は「沖縄には鉄道は無い。新幹線なんて乗ったことが無いのに何を書けるというんだ。」とぼやいていました…。お気の毒。

 さて、入試勉強真っ盛りの頃、富士通から新しいパソコン Fujitsu Micro 7 通称 FM-7が発売されました。CMキャラクターにはタモリを起用し、キャッチフレーズは「青少年は興奮する」だったと思います。新聞広告を見て本当に大興奮しました。

 FM-8との互換性を保ちながら高速化され、ホビー向けに音楽演奏機能やカラーパレット表示機能を追加。一方ビジネス向けの装備などを省くなどしてコストを下げ、なんと12万6千円という低価格での新発売。実にライバル機の2/3以下の本体価格でした。

 FM-7はFM-8好きの私のために生まれてきたようなパソコンでした。(^^;) そして、大学入学に合わせてついに念願のマイ・コンピュータを手に入れることができました。

 FM-7は非常に良く売れ、ホビー向けパソコン市場での富士通のシェアを一気に伸ばす原動力となりました。

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2008年8月30日 (土)

私とパソコン07 エニックス ゲーム・ホビープログラムコンテストに応募

(昭和57年頃のお話)

 昭和57年、プログラマーの卵たちを熱くするイベントがありました。エニックス(現在のスクウェア・エニックス)が、第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストを開催したのです。優勝賞金は何と100万円。パソコン一式を購入してもお釣りが来る、高校生にとっては巨額の賞金です。

 すみやパソコンアイランドの店員さんからは、「ウルトラゴルフ」を応募してはどうかと言われましたが、あまりに拙い出来でとても勝負できるような物ではありませんでした。そこで新たにゲームプログラムを作り上げる事にしました。

 私がメインで使っていた FM-8ではシューティングなどのリアルタイム型のゲームを作るのはやや苦手であったため、テーブルゲームのプログラムを組むことにしました。前年にアメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ市を訪問したときに、現地でいくつかゲームを購入して、ホームステイ先で遊んでいたのですが、その中でも最も面白かったカードゲーム「O'NO 99」のパソコン版を作る事にしました。

 「O'NO 99」は有名な「UNO」の姉妹版です。実はオマハ市のおもちゃ屋で「UNO」を買おうとしたら「O'NO 99」付きのパッケージが割安で売られていたので、偶然手に入れたという経緯があります。ルールは比較的単純。プレーヤーは4枚の手札を持ち、場に一枚出して、山札を一枚引くのが基本です。場に出されたカードの数字を加算していき、合計が99を超えてしまったプレーヤーが負けとなります。カードの種類は、「2」から「10」までの数字に加え、ヘルパーカードとして「Reverse」(逆順)、「Hold」(固定)、「Double Play」(次のプレーヤーが2度手札を出す)、「-10」(合計を10減算)、「O'NO 99」(場に出せないお邪魔カード)の5種類があります。

 すみやパソコンアイランドの展示品のFM-8をお店の2階に移動して、占有的に使わせてもらうという破格の便宜をはかっていただき、開発は順調に進みました。(受験生なのに何をやってんだか。) カードを出していく戦略をどのようなアルゴリズムにしていくかが頭のひねり所でした。とりあえず完成して応募したところ、エニックスからコンピューター側の強さレベルを変更できるようにして欲しいとの要望がありました。そこで、それまで組んでいたアルゴリズムを標準的な強さの「レベル2」として、コンピューターが時々ミスする「レベル1」、コンピューターが共同作戦を取る「レベル3」を選ぶ事ができるようにしました。

 いよいよコンテストの結果が発表されました。最優秀プログラム賞は森田和郎氏の「森田のバトルフィールド」、優秀プログラム賞には中村光一氏の「ドアドア」などが選ばれました。残念ながら私の「O'NO 99」は入選する事ができませんでした。賞金でパソコンを買う夢は儚く消えてしまいました。

 入選したプログラムは次々と商品化され、プログラマたちのその後の作品から多くのヒット商品が生まれ、エニックス躍進の原動力となったのでした。そしてあの「ドラクエ」シリーズへとつながって行ったのです。

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2008年8月23日 (土)

私とパソコン06 エプソンHC-20を借用

(昭和57年頃のお話)

 私の通っていた高校は相当変わっていて、進学高にもかかわらず、運動会は秋に行われていました。しかも運動会の終了後にクラス対抗の仮装大会があり、例年それに一番情熱を燃やすのが、受験を控えた3年生でした。

 仮装大会と言っても、単なる仮装行列では無く、各クラス創意工夫を凝らした大道具や演出で競い合うのです。理系コースだった私のクラスでは、仮装のバックグラウンドの大道具として大きなドットマトリクスのパネルを作って、そこにいろいろなパターンの表示をさせる事が決まりました。さすがにパソコンで点滅を自動制御するなんていう技術は無かったので、横1列10ドットを10個の押しボタンで操作するようにして、それを10人分作ることで10×10ドットの電光掲示板を作成しました。ものすごい技術を使っているように見せかけつつ、ものすごい人海戦術でした。スイッチ類は秋葉原のラジオ会館やその周辺のパーツ屋を回って買い集めました。

 次に表示させるパターンの設計です。ポケコンの1列画面ではさすがに10×10ドットのキャラクターパターンの設計をするのは難しく、かといって手書きでのトライ&エラーもしんどいものがあります。そんな時「すみやパソコンアイランド」の店長さんが私物のエプソンHC-20を貸して下さいました。

 HC-20は重さ1.6kgの本体に、キーボード、プリンタ、液晶ディスプレイ、マイクロカセットレコーダが組み込まれ、バッテリーで作動するという画期的なハンドヘルドコンピューターでした。さっそくBASICで、ドットマトリックス表示を設計するプログラムを作りました。1秒1パターンで表示していくので、かなり膨大な数のパターンが必要です。そうして完成したパターン表を、楽譜のように10人のプレイヤーの10本の指の動きに変換。それぞれのプレーヤーが必死になって押しボタンの操作をマスターしてくれました。

 仮装大会当日、夕闇に美しく浮かび上がるドットマトリクスのアニメーション。クラスメート全員の協力で成し遂げた素晴らしい作品になりました。

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2008年8月16日 (土)

私とパソコン05 東芝パソピアで一夜漬けプログラミング

(昭和57年頃のお話)

 昭和57年(1982年)8月。静岡市呉服町通り商店街の夏祭り。すみやパソコンアイランド主催の企画として、東芝のパソコン「パソピア」を使ったゲーム大会が行われる事になりました。我々お店の常連たちは、日頃お世話になった恩返し??にゲーム大会のポランティアスタッフを勤める事になりました。

 ゲーム大会の日程は3日間です。パソピアは1981年に発売された機種でしたが、人気はぱっとせず、あまり市販ソフトも発売されていませんでした。大会初日は市販のゲームソフトを利用して行われました。どんな内容のゲームだったか、今となっては覚えていませんが、あまり面白く無く、盛り上がりにかけていました。とはいえ、他に盛り上がりそうな市販ゲームも無く…。PC8001やPC6001だったらいろんなソフトが市販されていたのですが、不人気機種の悲哀です。

 1日目の日程が終わった後、大会で使ったパソピアの本体とディスプレイ、取扱説明書など一式をお借りして、ママチャリの荷台に積んで自宅に持ち帰りました。パソピアのT-BASICでプログラムを組んだことは殆どありませんでしたが、F-BASICやN-BASICとさほど文法の違いは大きく無いので何とかなるだろうと思ったのです。

 夜通しパソピアに向かい、自作のゴルフゲームソフトをでっち上げました。「ウルトラゴルフ」という名前は立派ですが、方向と強さだけをユーザーに入力させ、そこに若干の乱数を加味して、着弾点を決めるだけのアルゴリズムです。コースは何とか1つだけ間に合わせました。色分けしたキャラクター描画でフェアウエーやラフ、バンカーなどを配置しただけ。打ち出し場所がバンカーだと、飛距離が1/3になるとか、そんな程度の適当なプログラムでした。

 ゲーム大会の2日目、「ウルトラゴルフ」がデビュー。操作が単純だったのが却って良かったのか、いいかげんなプログラムの割には評判が良く、前日より大会は結構盛り上がりました。2日目の晩はまたまたパソピアを自宅に持ち帰り、更に2コースを増設。ゲーム大会3日目には堂々3コースでのプレイが実現したのでした。

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