タンザニアの旅

2006年11月16日 (木)

タンザニアの旅01 計画開始

 先進国よりも途上国に魅力を感じている私たち夫婦。

妻「今年はどこに旅行しようか。」

私「前に行ったアフリカのマラウイはとっても楽しかったけど、全然動物がいなかったんだよね。今度は動物を見に行ってみたい。」

妻「私はやっぱりきれいな海が好き。タンザニアなら両方楽しめるよ。」

 そこで下調べ。既成のツアーでは、タンザニアのサファリとザンジバル島のビーチを組み合わせた物は見つからない。これは自分で手配しないと駄目かなあと思っていたら、Japan Tanzania Tours (JATA Tours)  http://jatatours.intafrica.com/ という強い味方を発見。日本人の根本さんがタンザニアの(事実上の)首都ダルエスサラームで経営している旅行会社だ。メールで旅程などについて相談してみると、はるかかなたの途上国に居るとは思えない様な素晴らしいレスポンスでなんと1時間13分後に返信あり!そこで今回の旅行の手配はJATA Tours さんにお任せしてしまう事にした。

 ダルエスサラームに行くにはエミレーツ航空以外の選択肢が殆ど無い。ケニアのナイロビ経由で入る方法もあり、この場合カタール航空も利用できる。しかし出発は4ヶ月以上先だというのに帰りの座席が満席で、最終日のザンジバル発も早すぎるため没。結局エミレーツ航空で羽田-関空-ドバイ-ダルエスサラームというルートに決定した。サファリは、セレンゲティ国立公園とンゴロンゴロ保護区を回る事になり、到着日にアルーシャで1泊、セレンゲティで2泊、ンゴロンゴロで1泊、ザンジバルで3泊と、数日の間に日程も固まり、宿泊の手配開始。とっても楽ちんである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月19日 (日)

タンザニアの旅02 予習

 タンザニアに行くにあたってまずは勉強。日本語のガイドブックは地球の歩き方 東アフリカ ぐらいしかないようだ。ザンジバル島の細かな情報がやや不足しているようなのでLonely Planet Tanzania をアマゾンで入手。

  JATA Tours のホームページで、タンザニアを知るための60章が発刊されるとの情報を得てこれも購入。タンザニアの歴史、政治、文化、産業などいろんな事が書かれていてとても面白い本だった。引き込まれる様に2日で読破。

 このエリアスタディーズシリーズはなかなかマニアックである。マラウイを知るための45章が先に刊行されていたのでこれも購入した。マラウイはタンザニアの南西に隣接した内陸国で、日本での知名度はかなり低い。最近マドンナの養子事件で少しだけ話題になった。実はこの国には日本から青年海外協力隊が多数派遣されている。妻もその中の一人であった。この本を読んでいた妻が驚きの声を上げた。「あっ、私の家だ!」 コタコタのリビングストンの木の写真の後方に、なんと妻が住んでいた家が写っていたのだ。

 これらの本にも触発され、短い旅ではあるが、できるだけタンザニアの文化を理解し、現地の人とコミュニケーションを取りたいと思った。そこで世界史を勉強し直す事にした。
大航海時代に西ヨーロッパの探検家が訪れるよりもはるかに古くから、東アフリカとインドやアラビア世界はダウ船による交易を通じ強く結びついていたのだが、教科書にはそんな事は全く書かれていなかった。

西ヨーロッパ人が到達した後からようやく教科書上の東アフリカ史は始まる。アラブ商人による奴隷貿易。それをやめさせようとしたキリスト教宣教師。しかしやがてそのキリスト教徒であるドイツやイギリスによる植民地支配。独立運動と社会主義。南アフリカのアパルトヘイトとその崩壊。イスラム世界とアメリカの対立の影響。南アフリカ資本の台頭…。日本以外の視点から考える事はとても重要であると感じた。

※紹介した本は、マイリストにリンクを作ってあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月20日 (月)

タンザニアの旅03 スワヒリ語

昨年はタイに行った。成田空港でタイ語の本を買って飛行機の中で読んでみたが、結局はタイの文字に歯が立たず、簡単な挨拶しか覚えられなかった。

 今回の旅行では、もう少ししっかり現地語でコミュニケーションしたい。スワヒリ語はもともとは文字を持たない言語だったらしく、現在はローマ字で表記されている。だから文字を覚える苦労は無い。せっかくなので、挨拶+αぐらいはスワヒリ語で話せるようになり、スワヒリ語の看板も読めるようになりたい。たった10日の旅のためにと何ヶ月も努力するのはばかばかしいと思われるかもしれないけれど。

 とはいえ近くにスワヒリ語を話す人がいるはずも無く、スワヒリ語会話スクールがあるわけでもない。ネットで調べて「まずはこれだけスワヒリ語」という本を通販で購入し、勉強を開始した。

 スワヒリ語はヨーロッパの言語とは全く異なっており、接頭辞というものが発達しているということがわかった。例えば、「良い」という意味の形容詞は、英語ではgood、ドイツ語では gut、フランス語では bon で、形が変わることが無いが、スワヒリ語の -zuri は、修飾する名詞のクラスによって語頭が変化する! habari nzuri (良いニュース)、 chakula kizuri (良い食事)、pahali pazuri (良い場所) といった具合である。これには面食らったが、同時にとても面白いと思った。

 もうひとつ面白いと思ったのが、日本語との意外な共通点である。スワヒリ語では単語は母音で終わる。外来語においてもこの特徴が表れる。internet が intaneti、stamp は stempu に。語尾のuがとても日本語っぽい。computer に至っては kompyuta で殆ど日本語のローマ字表記と同じになる。何だか親近感が湧く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月23日 (木)

タンザニアの旅04 出発

前置きが長くなったので、いいかげんに旅立つ事にしよう。
9月29日(金曜日)
 しかし実際の旅も、なかなか出発に時間がかかるのである。今回は羽田発着。羽田空港の周辺の駐車場は成田の様に安くは無いし、金曜日の夕方で首都高も渋滞が予想される。午前中に仕事してからの出発なので、電車での移動を選択した。
 まず家から最寄りの東武日光駅までスーツケースを転がしながら歩く。ここから羽田空港までは割引乗車券「空の旅おでかけきっぷ」を使う。浅草か押上で東武線から都営地下鉄に乗り換えるのだが、このキップを使うと50円も安くなる。(もうちょっと安くしてほしかったが。)東武日光から下今市まで各駅停車、下今市からスペーシアで浅草まで行く。浅草では一旦外に出て、都営地下鉄の浅草駅まで行くのだが、夕方で人通りは多いし、結構駅は離れているし、階段を下って、上って、また下るので、重いスーツケースを持つ身には辛いものがある。押上乗り換えの方が楽だったかも。都営浅草線は2本ほど見送って、羽田空港行きの直通に乗車。3時間がかりで京急羽田空港駅に到着した。
 手近のJALのカウンターで搭乗手続を始めるが、途中で「ここではありません」と言われ、隅の方にある国際線乗り継ぎのカウンターに案内される。荷物をチェックインすると、なんとダルエスサラームまで預かってくれるとの事。そればかりではない。搭乗券も、羽田-関空、関空-ドバイ、ドバイ- ダルエスサラームの3枚を一度に発行してくれた。ドバイで乗り継ぎ手続きが必要ないし、すでに座席も決まっているのは安心だ。ちなみにエミレーツ航空の格安航空券では、JALのマイルは貯まらないとの事。逆にJALに乗ってエミレーツのSkywardsのマイルを貯める事はできる。20000マイル貯めれば、JALの国内線に無料で乗る事ができる。(今回の旅行だけで17866マイル貯まるので無駄にするのはもったいない。)
旅行会社からは国際線に準じて2時間前集合と言われたが、手続きはスムーズで、羽田では出国手続きも無いので時間が余ってしまった。(日本人は仕事が早い。)羽田から搭乗したのはJALとエミレーツの共同運行便だが、機種はJTA所属のB737で定員150名の小さな飛行機。新幹線を一回り大きくしたような空間で、もちろん座席にテレビも付いていないビジネスライクな乗り物である。周囲もサラリーマンばかりで、旅行に行くというよりも、家路に着くという雰囲気だ。
 1時間たらずのフライトで関西空港に着陸。夜遅いせいか閑散としていて、お店も殆どしまっている。さくさくと出国審査を済ませる。乗り継ぎ時間1時間20分でも余裕がある。(日本人は仕事が早い。)搭乗口に行くとさすがに国際色豊かで、俄然旅行気分が盛り上がってくる。搭乗したエミレーツ機は、エコノミークラスでもフットレスト付きのレカロシート。ビデオシステムも最新。さすがはリッチなUAEの飛行機だ。あちこちに表示されているが全く読めないアラビア文字が楽しい。23時15分、ドバイへ向けていよいよ離陸である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月26日 (日)

タンザニアの旅05 ドバイ空港

9月30日(土)
 エミレーツ航空の機内食は宗教上の配慮からであろう、フィッシュorチキンのチョイス。深夜の離陸でご飯を食べるのもなかなかしんどいものがある。飛行マップは英語とアラビア語で表示される。アラビア語は右から左へ書くようなのだが、数字だけは左から右になっているのが面白い。いつもはつい映画を見てしまうが、長旅なのでさっさと睡眠薬をのんで寝てしまおう。
Dubaiap  約10時間30分のフライト中はずっと夜が明ける事は無く、午前5時に広大なドバイ空港に着陸。(アラブ首長国連邦UAE。日本との時差は5時間。)乗り継ぎ客は手荷物チェックを通り免税店の立ち並ぶ出発ロビーに。24時間営業の巨大空港の構内は早朝とは思えないほどの賑わい。人々が頻繁に出入りする部屋があり、トイレかと思って近づいたらモスクだった。本物のトイレで身支度を整える。水道の蛇口は自動だが、本当に「自動」と日本語だけで表示されている日本製だった。乗り継ぎは5時間もあり、さすがに暇。これからの時間は中東やヨーロッパ各地への便の出発ラッシュで、様々な国の人々が行き交う。白人や黒人の旅行者は床で寝ている人たちも多い。フードコートには各国料理の店が並ぶ。中東に来てまでなんだが、我々はタイ料理のお店で朝食を摂る。定番のパッタイ(焼きそば)と、カオパックン(エビチャーハン)を賞味。日本のお店よりもスパイスが効いていて結構おいしい。となりのインド料理店の前にはインド系の人たちが長蛇の列を作っており、そこだけが異様な混み具合となっていた。

 ようやくダルエスサラーム行きの搭乗手続が始まる。見たところ日本人は我々の他には誰もいないようだ。午前10時予定時間通り離陸。ドバイは近代的な町だが、家と家の間は砂地になっている。そして市街地が途切れると、あとは見渡す限りの砂漠。初めて見る異様な景色に目を奪われる。A330の機内は満席。あちこちでアフリカ人が通路で立ち話をしている。(妻によると、彼らはじっと座っているのが苦手なのだという。)スワヒリ語の単語が所々耳に入ってくるが、会話の内容は理解できない。

 紅海を横断し、ソマリア上空をかすめ、インド洋上を南下。赤道を越え、ドバイから5時間以上。眼下に後日訪れるザンジバル島が見えてきた。サンゴ礁の海が美しい。ザンジバル海峡を飛び越えるとダルエスサラーム上空。いよいよアフリカ大陸上陸だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 1日 (金)

タンザニアの旅06 ダルエスサラーム空港

 9月30日(土)

 午後2時30分ダルエスサラーム空港に着陸。日本は夜の8時30分。羽田を出てから24時間でようやくアフリカ大陸に上陸だ。意外にも(失礼!)ボーディングブリッジがあり、案外近代的な空港かと誤解する。

 入国審査場は人々でごった返している。アフリカ人特有の体臭がムンムンしているが、まあすぐに慣れる。この混雑は、直前に南アフリカのヨハネスブルクから南アフリカ航空のA319が到着したばかりで、その乗客100名余りと、我がエミレーツの200名が一度に押し寄せたためと判明する。

 入国審査は東アフリカ住民と、その他の外国人に分かれてい。特に何の案内も出ていないが、右側のカウンターではビザを持たない入国者への即時発行も行われている。アフリカに来たらせかせかしてはいけないが、周囲をよく見て無駄なく動かなければならない。通路の狭い部分をビザ待ちの人が塞いで渋滞を作っている事に気付き、人ごみをかき分けて前へ進む。入国審査の待ち行列を見つけ後ろに並ぶ。審査官に Pole na kazi.(お仕事お疲れ様。)と声をかけるが無反応だった。(どこの国も空港職員は愛想が悪い気がする。)

 随分時間をかけてラゲッジクレームに到達したが、まだ手荷物は出てきていない。(アフリカ人は仕事が遅い。)しばらく待って、羽田で預けた荷物にようやく巡り会えた。着陸から1時間がかりで外に出ると JATA Tours のドライバーの Mapunda 氏が待っていた。待ちくたびれたらしく、簡単な挨拶を済ませると国内線の航空券とホテル・ロッジのバウチャーの入った封筒を渡して、さっさと帰ろうとする。Ngoja kidogo.(ちょっと待って)と声をかけ封筒の中身を確認してから帰っていただく。

Dar 空港の建物の外に売店や薬局があるがあまり内容は充実していない。両替所やツアーデスクのエアコンの室外機が客の方に向かって熱風を吹き出している所もアフリカ的だ。

 まずはお金の確保。もちろんUSドルも持ってきているが、現地通貨も必要だ。2台だけだが(しかも1台は故障中)ATMがありシティバンクのキャッシュカードでタンザニアシリングを引き出す事ができた。上限は20万シリング。20万というとかなりの大金に思えるが、1ドル1300シリングぐらいなので、日本円では18000円ぐらいである。ただし現地の人にとってはかなりの大金なので、周囲の様子には注意が必要だ。

 次は薬である。前の週からマラリア予防のためにメフロキン(妻が以前アフリカに滞在していた時の飲み残し)を始めているが数が足りないのだ。薬局に行って、Nataka dawa ya malaria, mephloquine na doxycycline.(マラリアの薬が欲しいんだけれど、メフロキンとドキシサイクリン。)と話すと問題無く通じるのだが、言われた返事がわからない。隣の売店の店員さんが英語で、大人か子供かって聞いてるんだよとフォローしてくれた。その後は結局英語でのやりとりに…。(アフリカではマラリアは風邪みたいなもの。年に2-3回はかかるので、よっぽど重症でなければ薬局で薬を買って自分で内服するのだとの事。もちろん重症化すれば命を落とす事も多々ある恐ろしい病気である。)

Precision  (事実上の)首都ダルエスサラームの町にも興味があったが、日程の都合で今回は訪問できない。午後6時のプレシジョン航空のプロペラ機に乗り換える。この飛行機キリマンジャロ国際空港経由でケニアのナイロビ行きだったため、国際線ゲートからの出発だった。それに気づかず国内線ゲートの方で待っていて、危うく乗り損ねる所だった。(もちろんチェックインの時に何の案内も無かったし、チケットにも何の表示も無かった事は言うまでもない。ここはアフリカである。)小さな飛行機でたった1時間のフライトだが、軽食も出て、ビールも飲めた。暮れゆく中でキリマンジャロ山の姿を探したが、見る事はできなかった。余談だが、キリマンジャロの言葉の切れ目は、キリマ・ンジャロ(輝く峰)である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 3日 (日)

タンザニアの旅07 アルーシャ到着

9月30日(金)
Photo  キリマンジャロ空港に着陸したのは午後7時過ぎ。国際空港といっても簡素な空港で、もちろんボーディングブリッジなどは無く、構内も薄暗い。荷物を受け取り、外に出てしばらく待っていると、プレシジョン航空のカラーに塗られたマイクロバスがやってくる。Basi hili litakwenda Arusha?(このバスはアルーシャに行くの?) と聞こうと思っていたら、その前に妻に"Arusha?"と先を越された。アルーシャの町は空港から60kmも離れているが、プレシジョン航空は無料のマイクロバスを出してくれているのだ。予想通りバスは日本車の中古で、扉には「自動扉」 と書かれているが、実際には開閉は手動であった。扉の後方には「車掌席」との表示もあり、日本時代には山間地の路線バスとして利用されていたのかもしれない。イギリスの植民地だった国は左側通行、右ハンドルなので日本からの中古車が中東経由で多数輸出されている。マラウイでも、ここタンザニアでも見かける車の大多数が日本車。それもかなりの年代物が日本語の表示のまま活躍している。
 空港取り付け道路を北へ進む。人家も無いはずで、もう日もとっぷりと暮れているのだが、多くのタンザニア人が路肩を歩いている。国道に突き当たったところで左折して西に向かう。(右に曲がればモシに向かう。)所々の集落のバーには電気がつき、人々が集まっている。夜だというのに結構な人出である。大きめの集落の所には道路に段差(ハンプ)が作られており、減速して通過する。それ以外の所はぶっ飛ばして走る。なかなか合理的。1時間以上走りようやくアルーシャの町はずれに入る。途中いくつかのホテルを回って客を下ろしていくが、比較的立派なホテルが多い。何番目かに我々の泊まるインパラホテルに到着。時刻は午後9時前。自宅を出てから36時間。やっと最初の宿泊地に到着した。
 ホテルはとてもしっかりしており、入り口は(空港にも無い)自動ドア。驚くべき事にガラスばりのエレベータ、プールまである。廊下の掃除も行き届いており、部屋に入るとバスルームにはシャワーだけでは無く、しっかりとバスタブもある。隣国マラウイでは考えられない。かなり外資が入っているのだろうと思う。すでに夕食をとる時間でも無く疲れたので入浴を済ませてさっさと寝てしまおう。明日も6時30分には起きなくてはいけない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 9日 (土)

タンザニアの旅08 セレンゲティへの長い道の始まり

10月1日(日)
 インパラホテルの朝食は普通のビュッフェスタイル。メニューは普通の洋食だが、コーヒーはインスタントである。いや、実はこの先どこに行ってもコーヒーはインスタント。コーヒーの産地なのだが、レギュラーコーヒーは出てこない。保存の問題なのか焙煎技術の問題なのか???Thadeus
 午前8時。チェックアウトを済ませると、Multi Choice Safaris のドライバー Thadeus 氏が玄関で待っていた。(アフリカにおいて時間厳守してくれるというのはすごい事。)これから3泊4日のサファリの運転とガイドを担当してくれる。さっそくスワヒリ語で挨拶。車はハイエース。オフロードカーを予想していた妻は「これで行けるの?途中で乗り換えるんじゃないの?」と尋ねるが、「大丈夫。どこでも走れるよ。」との事。事実、4WDで車高はやや高くしてあるので、大丈夫そうだ。
 朝のアルーシャの町はひんやりしている。低緯度の地方だが標高がかなり高いためである。長袖を来ている人も多い。タンザニア北部の中心都市だが人口は14万人ぐらいだ。車が多くて混乱気味だが渋滞するほどでは無い。走っているのは日本車ばかりだ。"tigo"と書かれた鮮やかな青色の看板がやたらたくさん目につく。携帯電話会社だそうだ。その他にも celtel, vodacom といった携帯電話会社の看板が氾濫している。(もちろんみな外資系。) webも見られる最新機種がPRされている。普及率も意外なほど高い。月収の何倍もするような携帯電話をどうやって買っているのか不思議である。携帯よりも水や電力のなどのライフラインの安定供給の方が優先順位が高いように思うが????
BomaBoma2  市街地を抜け、西へ向かう国道を進む。小規模なアルーシャ空港の横をかすめる。セスナが何機か停まっている。草原の中に見える茶色い屋根の簡素な集落がマサイの村。 この 辺は町に比較的近いので、自転車に乗ったマサイ族の若者も見かけた。

Road 75kmほど走り、Makuyuniという村で右折して北へ向かう。なぜかここから道路が突然良くなる。マラウイもタンザニアも幹線道路は舗装されているが、路肩は舗装されていない。しかしこの道は、路肩まできっちり舗装されており、路面も平滑。道路用地の境界を示す標柱も立てられている。まるで日本の道路のようだ。 それもそのはず。実は日本(JICA)の支援で改修されたのだそうで、建設は日本の土木会社が担当しているのだ。(タンザニアでは道路改修を rehabilitaiton と言う。)

great rift valleyMto wa Mbu 乾いた平原を進む事35km。すでにアルーシャから100kmを過ぎ、時刻も9時30分。大地溝帯 great rift valley の断崖が近づいてくると、 急に緑が濃くなる。Mto wa Mbu 「蚊の川」という村に着く。水が豊富で、蚊がたくさん居る事から名付けられたそうだが、それはマラリアの多発地帯である事を意味する。蚊の発生を抑えるため、道路改修にあわせて水路はブロックで固められている。今は昼間だから蚊に刺される心配は無いようだ。

 道はワインディングとなり、断崖を上っていく。Mto wa Mbu まで買い出しに来たと思われるタンザニア人たちも自転車を押して上っていく。左手にはマニャラ湖が見える。崖の上はまたなだらかな丘陵地帯となっている。出発から2時間。トイレ休憩を兼ねて、道端のみやげ物屋に立ち寄る。建物は簡素だがトイレは水洗!!クレジットカードも使える。売っているのは木彫りの人形やアクセサリーだが、白人相手の商売ゆえ、Ni ghali sana! Siwezi kununua. Samahani. 高すぎて買えないよ、ごめんね。

Ambulance  その先の Karatu (唐津みたいな地名だ)という町では日本の救急車を見かけた。赤色灯や消防局の文字もそのままであるが、もちろん救急車では無く乗合バスとして利用されている。

 出発から3時間弱。150kmの道程を走り、ようやく Ngorongoro 保護区のゲートに到着した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

タンザニアの旅09 外輪山を越えて大平原へ

 10月1日(日)
Crater_model  ドライバーのThadeus氏がゲートの入場許可を取りに行っている間、トイレに行ったり、資料室を見学したりして過ごす。外輪山に囲まれた火口原の模型に期待が高まるが、クレーターへ降りるのは明後日までおあずけだ。車に戻り、ゲートを越えて Ngorongoro 保護区へと進む。この先は全て未舗装路となる。(そして本日の宿泊地まではまだ200kmぐらいある。)森林地帯のため見通しが悪く、運転は注意を要する。観光道路として多くのサファリカーが通るだけで無く、生活道路でもあるため、物資を輸送するトラックや、大型の路線バスまでもがこの道を通るのだ。
 注意が必要なのは対向車だけではない。右側から突然大きな黒い物が飛び出し、我々の車の前を横切って左側の茂みに消えて行った。野生のバッファローだった。
 急坂を登る事10分強。標高は2000mを越える。突然森が開けると外輪山の尾根に登り着く。車窓の右手の光景に目を奪われる。言葉にならない感動。カメラのレンズを広角ズームに付け替えて車を降りる。10mmの超広角でもその全容を収める事ができない雄大な光景であった。(ここの写真はオンラインアルバムの3枚目。是非フルサイズ3456×2304のデータでご覧いただきたい。)
Zebra  外輪山の上を左回りに4分の1周。野生のシマウマたちが草を食べているかと思えば、家畜の牛を連れたマサイ族が歩いていたりする。ここは国立公園では無く、動物保護区なので、マサイの居住が許されている。人と家畜と野生動物(もちろん肉食獣も!)がすぐ近くで、隔てる物も無く、共存しているのだ。やがて道は西へ進路を変え、大きなカーブを描きながら大平原へと下っていく。思い出した様にマサイの村が現れる。こんな水も無いところで、いったいどうやって生活しているのだろう。

 道路は乾燥し、土埃がひどく、路面も荒れている。無謀なサファリカーが猛スピードで追い抜いていくが、Thadeusは路面の状態を見ながら荒れた部分は徐行し、砂地ではスタックしにくい場所を選び、路面のいいところではスピードを上げる。(遅く走っていては、今日中にたどりつけない。)乗り心地はすこぶる悪いが、信頼のできる運転のため、乗っていてあまり怖くは無い。道程は長い。おなかがすいてきたので、ランチボックスを渡してもらい、揺れる車内で昼食を取る。中身はサンドイッチ、フライ、ポテトチップ、チョコレート、りんごなど。油ものが多いので全部は食べきれない。

 平原の真ん中にアーチのような物が立っている。これが Ngorongoro 保護区と、Serengeti 国立公園の境界だ。とはいえ、それ以外には何の目印も無い。この先はマサイも居住する事はできず、本当の野生動物の王国なのだ。未舗装路を爆走する事3時間以上。アルーシャを出てから6時間。小高い丘が見えてきた。午後2時過ぎようやく Naavi Hill のゲートに到着した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

タンザニアの旅10 初日のサファリ

10月1日(日)
Tornado  Serengetiとは、マサイ語で Endless Plain の事だとThadeusが解説する。確かに無限の平原。既に車で2時間も走っているが、今いる所はまだ草原の南のはずれ。面積14750平方kmと言われてもピンと来ないが、計算すると120km四方ぐらい。栃木県の面積が6408平方km。四国の面積が18300平方kmだそうだから、どれほど広大かわかる。

 平原に点在する小さな岩山(コピエ)を利用して作られたのが Naavi Hill gate であり、ここでお金を払って入場許可をもらう事になる。Thadeusが手続きをしている間に丘の上に登る。そこから見えるのは本当に360゚大草原。地平のはるか彼方に竜巻が見える。
Lizard  岩の陰から、鮮やかな青と紫を身にまとったトカゲが現れた。丘を降り腰を降ろして休憩する。野生動物に餌をやる事は禁止されており、罰金が課せられている。しかし実際にはあげる人が多いのだろう。ランチボックスを見て小鳥たちが集まってきた。

 駐車場に大型バスがやってきた。たくさんの黒人が降りてきて、一斉にトイレに向かう。タンザニア人も野生動物を見に来るのかと一瞬思ったが、どうも雰囲気が違う。表示をみたらビクトリア湖畔の Musoma 行きの路線バスだった。バスの乗客も保護区や国立公園の入場料を払わないといけないらしい。

Hiace  車に戻ると、屋根が上がっている。いよいよここからは本格的な野生動物の観察が始まる。この車、良く見ると吸気口につながっていると思われるダクトが屋根の上まで延ばされており、浅い川を渡る事もできるように改造されている。なかなかのすぐれものである。

 午後3時前にゲートを出発。道は相変わらず平原の中を進んでいくが、途中でいくつもの枝道が出来ている。もちろん標識などは殆ど無い。サファリカーのドライバーたちは、全ての枝道を熟知していて自由自在に目的とするスポットへ行く事ができる。私も方向感覚には自信があるほうだったが、目印の乏しいこの大平原の中では、今メインルートのどちら側をどんな方向に進んでいるのか全くわからなくなってしまった。彼らのもっとすごいのは、未舗装路を高速で運転しながら、はるか遠くにいる野生動物を見逃さない事である。

Lion  強い日差しが容赦なく降り注ぐ。肉食獣たちは昼寝の時間だから、活動しているのは草食動物ばかりである。ダチョウ、トムソンガゼルなどを見ながら進む。遠くの木の所にサファリカーが集まっているので、われわれもそちらへ移動。木陰でライオンたちが眠っていた。ピクリとも動かない。

Tomi  ガゼルやハーテビーストなどの草食動物は種類が多く、最初の内は名前と見分け方が覚えられない。写真の脇の方にいる、体が小さくて黒く太い筋が横に走っているのがトムソンガゼル。とにかくたくさんいる「雑魚キャラ」なので、サファリを続ける内に気にならなくなってくる。写真の真ん中のあたりで群れをなしている、角がネジネジしているのが、(たぶん)コークハーテビーストである。この日はその他、イボイノシシ、カバ、セクレタリーバード、サバンナモンキーなどを見る事ができた。車はメインルートに戻りセロネラ地区を目指す。途中右手に空港がある。いや正確には air strip といって、単にセスナの離着陸の為に草を刈り取ってあるだけの土地でである。「もちろん」舗装はされていない。お金があればアルーシャから1時間ぐらいで飛んで来れるらしい。未舗装の滑走路に着陸するのはどんな気分だろうか…。

 午後5時半頃に今日の宿泊地セロネラワイルドライフロッジに到着した。東京から名古屋までに相当する約350km。9時間30分の長い長い道程だった。Thadeus, pole na kuendesha gari. Asante sana. 運転お疲れ様。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年12月11日 (月)

タンザニアの旅11 セロネラワイルドライフロッジ

Seronera_1  セロネラ地区はセレンゲティ国立公園の中心地である。しかしロッジから見えるのはやはり平原ばかりで、他の建物は一切見えない。中心らしい事といえば、道の分岐に珍しく標識が出ている事や、エアストリップが近くにある事ぐらいである。
 ロッジの写真は、Do Do Worldのホームページの中のアフリカ旅知識-ケニア・タンザニアのホテル・ロッジのページが充実している。岩山を利用したレストランやバーからはサバンナが一望できる。

 ロッジの敷地の周囲には特に柵があるわけではない。事実サバンナモンキーや、マングース、ハイラックスなどの小動物は頻繁に見かける。夜行性のカバや、肉食獣が入ってこないのか心配になるが、どうなっているのかは聞きそびれた。

 ここを始め、このあと宿泊するロボ、ンゴロンゴロのワイルドライフロッジを経営する Hotels and Lodges Tanzania はインド人の経営だそうだ。とても立派なロッジで、清潔に保たれている。水場は近くには無いので数十kmも離れたところから引いているとの事。しかしバスルームにはバスタブもある。(あまり使わないでくれと注意書きがついている。) 電気は自家発電で、深夜は止まる。celtel の携帯電話が通じる。最寄りの町から数百kmも離れた大平原の真ん中とは思えない充実ぶり。それでも何軒かあるロッジの中では宿泊費用はリーズナブルな部類に入るらしい。客はヨーロッパ人が殆どで中高年の人が目立つ。

 各ロッジとも夜はショーが行われるのだが、日本からの大移動に続く、未舗装路の長時間ドライブでかなり疲れ果てていたので、夕食後はキリマンジャロビールで酔いも回り早々にダウンしてしまった。野生動物の鳴き声が遠くで響いている。Lala salama. おやすみ。

 明けて10月2日(月)。早朝に起きて肉食獣の活動が盛んなうちにモーニングサファリを楽しむ人たちも多いし、値段は高いが気球に乗ってバルーンサファリを楽しむ事もできる。でも我々は朝寝坊を選択し、8時30分に午前中のサファリに出発した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月13日 (水)

タンザニアの旅12 2日目午前中 セロネラ周辺のサファリ

10月2日(月)
 朝8時30分にセロネラワイルドライフロッジを出発。午前中はセロネラ周辺のサファリを楽しむ。
Swaratomi_1  最初に見かけたのは、やはりトムソンガゼル。初日の最初のうちは喜んでいたのだが、そろそろ「またお前か」という感じになってくる。奈良公園の鹿みたいな物だろうか。でも良く見るとなかなか可愛らしい動物ではある。

Boar_1  Thadeus が車を停め、「イノシシ」と言って教えてくれる。動物の日本名もいくつか覚えているのだ。次に、イボイノシシの群れに会う。みんなでこちらにお尻を向けて草を食べているのが可愛らしい。日本のイノシシよりも小型で、あまり鼻息も荒くないようだ。

Twiga_1  続いて左手間近にマサイキリンが現れた。キリンの背の高さは、ちょうどアカシヤの木の高さと同じぐらいだ。木の葉を食べるために首が長くなったのだという事がよく分かる。キリンにはアミメキリンとマサイキリンがいて、セレンゲティにはマサイキリンが生息している。模樣がギザギザしているのでわかるが、いろんなキリンの中には中間的な模様の物もいて区別が難しい事ある。
Topi_1  シマウマを見かけた時に日本語で「シマウマ!」と叫ぶと、スワヒリ語のSimama! (止まれ!)と勘違いしてドライバーが車を停めてしまう。ガイドブックに書いてあったそんな冗談も Thadeusはもう知っていた。そのシマウマの群れの近くに、同じぐらいの体格のトピと呼ばれるハーテビースト族がいる。足の付け根が黒くて、顔もちょっと黒いので覚えやすい。黒光りしている様子が精悍でかっこいいと思う。
Stork_1  ハゲコウはコウノトリの一種。欧米や日本では幸せを運ぶ鳥とか、赤ちゃんを運んでくるとか言われて割と良いイメージだが、アフリカのハゲコウは町中でゴミをあさるなど、何だかカラスのようだ。見た目も、あまりあかちゃんを運んでくれそうな印象は無い。
Cheetah_1  サファリカーの集まっている場所を見つけ近づく。チーターがいるらしい。時々猫の様に「ニャア」と鳴いている。見かけによらず可愛らしい声だ。Thadeusによると、今は狩りをしようとしているのではなく、つがいのメスを呼んでいるのだという。時々木陰で立ち止まって休みながら、我々のすぐ近くまでやってきたが、奥さんが見つからなかったらしく、やがて草原の中に消えて行った。
Twiga2_1  ちょうどその頃はるかかなたの地平線にキリンが…なんと8頭も。隊列を作ってゆっくりと進んでいく。いったいどこまで行くのだろうか。動物園でおなじみのキリンだが、こんな感動的な光景はやはりアフリカまで来ないと見る事は出来ない!
Tembo_1 Tembo2_1  どんどん気温が上がってきた。アカシアの木陰にたくさんの象たちが集まり、からだを密着させている。こうする事で、日にさらされる面積を減らす事ができ、強い日差しかよ身を守っているのだそうだ。また象たちはよく水辺に集まり、水浴びをしたり、泥浴びをしたりもする。これも日差し対策だ。
Ostrich  ダチョウのつがいが車道の上で座り込んでとうせんぼしている。道路の方が涼しいんだそうだ。写真の黒っぽい方がオスで見た目が良い、メスは茶色でなんだか野暮ったい感じ。
 長時間のサファリでトイレに行きたくなっても、もちろんトイレなんか無い。そこで適当なところで降ろしてもらって済ませる事になる。Thadeusが冗談で「そこの木陰と車の陰とどっちがいいと思う?」と聞いてくる。その木陰にはライオンが休んでいた。日蔭には動物が潜んでいる事が多いのでトイレには向かない。安全を考えると草食動物の群れが集まっている場所(すなわち肉食動物が近くに居ない可能性が高い)で、車の陰に隠れてするのがベストのようだ。
 正午になり、動物たちの行動もにぶり、われわれ人間も暑さにまいってきた。ロッジに戻り休息をとる事にしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月14日 (木)

タンザニアの旅13 2日目午後のサファリ

 10月2日(月)
Mongoose  12時30分すぎにセロネラワイルドライフロッジに戻る。昼食もビュッフェスタイル。その後バーでキリマンジャロビールを飲みながらくつろいでいると、中庭にマングースがたくさん現れた。近くの岩の下に巣穴があるらしい。
 フロントに預けておいたスーツケースを受け取り、14時30分にセロネラを出発。今日の宿泊地であるロボを目指す。本来ならセロネラに連泊したい所だったが、ワイルドライフロッジの方からは連泊不可との返事だった。JATA Tours の根本さんによれば、最近ロボの人気が落ちて稼働率が低い為、人気のあるセロネラと抱き合わせにしているのだろうとの事。さすが、インドの人は商売上手である。ロボが不人気の理由ははっきりしている。セロネラから更に80kmも北にあり、ケニアとの国境に近い。以前はケニアに抜ける事もできたらしいが、今は国境が封鎖されているので、帰りはまたセロネラに戻るしか無く、不便で時間の無駄になってしまう。またこの時期はセロネラ周辺に比べると動物の数も少ないのだそうだ。しかし根本さんは、ロッジとしてはとてもいいところだし、動物に関しては運次第だからと話していた。Bahati nzuri! 幸運を。
Hippo  ロッジを出て、標識に従い分岐点を左に進み進路を北へ取る。マサイキリンや象に出会う。その後ヒポプールに立ち寄る。ヒポプールとはカバ hippopotamus の集まっている水辺のポイントの事である。車を降りて水辺に近づく。写真のように日中はたくさんのカバたちが水に沈んでいる。水は濁っていて、ブクブクと泡が上がってきて、あたりはとても臭い。我慢しながらシャッターチャンスを伺っていたが、ついぞ浮上してくる事は無かった。
Crocodile  カバたちから少し離れた所では、ワニも汚い水に浸かっていた。動きがほとんど無いので、気付かずにうっかり近づき過ぎると危険だ。

Buffalo  車は更に北を目指す。標高が上がるにつれ周囲は次第に丘陵地帯となり、樹木も増えてきた。だんだん動物の数も少なくなってきた。午後5時を過ぎてロボ地区に入る。ロッジに向かう前に周辺を回って動物を探す。が、なかなか見つからない。あのトムソンガゼルもいなくなってしまった。Thadeus も少し焦っている様子だ。あちこち走り回って、ようやくバッファローの群れに出会った。頭がかつらをかぶっている様に見えてとてもユーモラスだ。大きなバッファローたちがまるで牧場の牛のように集まっている。
Baboon  続いて道のすぐ脇にヒヒの群れが現れた。草むらをむしって何だか食べている。猿の仲間の行動は見ていて飽きないが、彼らのいたずらには注意が必要だ。
 午後6時を過ぎて、少し暗くなってきた。ロボワイルドライフロッジは、岩山の上に作られていて遠くからもよく見える。取り付け道路はものすごい急坂になっていて道幅も狭い。そして登り切った所は壁になっており、右へ直角に曲がっている。トライアルコースのような難路だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月20日 (水)

タンザニアの旅14 ロボワイルドライフロッジ

 10月2日(月)
 午後6時過ぎにロボワイルドライフロッジに到着した。小さな岩山の上に建っているのだが、ここでも自家発電で電気が使え、お湯も出て、バスタブがあり、celtelだけだが携帯電話が通じる。余談だが、我々のVodafone(Softbank)3G携帯電話は、ドバイ空港では問題なく使えていた。タンザニア国内ではVodacomのネットワークで通話ができるはずだが、基地局は検出するもののなぜか接続できず、旅行中使用する事ができなかった。どっちにしてもサファリ中は通じないわけだけれど。
Lobo1  暗くなる前にロッジの敷地を散策。高台なので眺めが良い。セロネラに比べると樹木が多い。バッファローたちが草を食べている。レストランの脇には小さなプールもある。日が陰ったこの時間になるとかなり肌寒く、風も強いのでとても泳ぐ気にはならないが、昼間の暑い時であれば、サバンナを眺めながら泳ぐ事もできそうだ。
Lobo2  今日は体力に余裕があるので、夕食後は午後9時からのショーを楽しむ事にした。メンバーは高校生ぐらいの若者たち。踊り担当が女子4名、男子3名。後ろに楽器担当の女子3名。楽しく、激しく、踊り、歌い、飛び跳ねる。アフリカの人たちは何故かとっても良い声で、歌がうまい気がする。女の子たちは少しぽっちゃりしているが、男の子たちはみな筋肉隆々としてたくましい。レストランの固い床の上でのバック転など、見ていてはらはらする。何しろここは医療機関なんて何百キロも無いのだから。ショーのクライマックスになると客も一緒になって踊りだした。(もちろん妻も、私も。)あっと言う間に30分間の楽しいショーが終わってしまった。
 ロボは不便で、動物も少なく、短い日程のサファリでは正直時間の無駄も多くなってしまうのだが、このロッジの雰囲気や、ショーの楽しさはそんな不満も吹き飛ばしてしまうような素晴らしさだった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年12月22日 (金)

タンザニアの旅15 土埃にまみれながら再びンゴロンゴロへ

 10月3日(火)
 今日の出発は7時30分と早い。午前7時にレストランが開くのを待って朝食をとり、昼食用のランチボックスに、サンドイッチ、果物、お菓子、ジュースなどを一つずつ入れる。準備が整ったらすぐに出発だ。

 今日はンゴロンゴロまでの大移動。ンゴロンゴロクレーターのサファリを十分楽しむ為には、できるだけ早く移動しなければならない。我々のサファリカーも今日は屋根を閉めたままだ。走り始めると朝日に照らされて、車内に大量の土埃が舞っているのが見える。昨日までのサファリで屋根から入り込んだ砂が床やシートなどに降り積もっていて、それが窓から入ってくる風で舞い上がっているのだ。荷物も、服もあっと言う間に埃っぽくなってしまった。後部座席の窓を開けて換気を試みるが焼け石に水。もちろん他の車とすれ違う時は、急いで窓を閉めないと更に土埃をもらう事になる。
 ロボからセロネラまでの道は概ねなだらかな下り坂。道幅もあまり広くない。小さな丘の頂上付近では見通しがきかない事もある。こんなところで正面衝突はしたくないものだ。セロネラまで1時間30分。そこから道はやや広くなり、ほぼ平坦となるが、交通量が増え数分毎に対向車がある。トラックも走っているため、土埃は半端では無い。更に1時間走ると、ナービヒルのゲートにたどりつく。

 小休止のあと、大平原を東に向かって爆走。セレンゲティとンゴロンゴロの境界線を越えると、マサイ族の姿が現れる。村の入り口で観光客を呼び込んでいるマサイおばさんを無視して、オルドバイ峡谷への入り口も通りすぎ、雄大なワインディングロードで外輪山をよじ登り、稜線上のンゴロンゴロクレーターへの下り口に到着したのは、ちょうど正午頃だった。ここまで所要4時間30分。予想よりは早くたどりつく事ができた。

Ngorongoro1  写真の右側に見えているのが、クレーターへの下り道である。車は細い急な下り坂をゆっくりと降りていく。危険防止のためこの区間は一方通行になっており、上りは別の道からとなる。みるみるうちに湖水や草原が近づき、15分ほどで火口原に降りた。
Ngorongoro2  途中、牛を連れたマサイ族とすれ違う。そのすぐ近くで、たくさんのシマウマやヌーが草を食べている。ここは人と家畜と野生動物が何の境界も持たずに共存する不思議なフィールドだ。クレーター内は風が強く吹いていて、あちこちでつむじ風が巻いている。埃で目が痛くなる。昼の日差しは強烈で、火口湖の湖面からは水蒸気が上がっている。周囲には樹木が殆ど無いため、動物たちが休む日陰も無い。暑さに弱い肉食動物達は、道路補修のために積まれた土砂の山に身を寄せたり、草の中で身をかがめたりしている。
Lions_and_car  一番だらしないのがライオンだ。サファリカーを見つけると、車の作るわずかな日陰を求めてだらだらと群がってくる姿は、およそ百獣の王とは思えない。気をつけないと轢いてしまいそうだ。日本のサファリパークよりもよっぽど近距離でライオンを見る事ができるのが、嬉しい様な悲しい様な。
 火口湖にはフラミンゴがいるのだが、乾期で湖が小さくなってしまっているため、道路からはかなり遠い。望遠ズームで300mm(35mmフィルムカメラ換算480mm)までクローズアップするとようやく豆粒程度にフラミンゴの姿を確認することができた。
 動物たちだけで無く、我々も暑さと空腹で参ってきた。午後2時にピクニックサイトに立ち寄る。ここにはトイレも整備されており、水辺なので樹木もあり、木陰で休むことができる。ただし鳥も多いので、食事は車の中ですませるほうが安心だ。
Rhino  ここまでサイを見ることができなかったので、ドライバーのThadeusに是非見たいとリクエストしていた。あちこち走り回って、やっとサイを見つけることができた。最大望遠でやっとこの大きさで撮影することができた。肉眼では我々には黒い点にしか見えないが、Thadeusの目は(車を運転しながら)確実にサイの姿を捉えていた。すごい視力だ。

Crane  その後は、ヒポプールでおなじみのカバを見たあと、カンムリヅルなどを見て、再びトイレ休憩。ここで白人のおじさんから声をかけられる。実は私が先程撮影した、ライオンの集まるサファリカーの写真は彼の車だったのだ。写真を送ってほしいというので、メールアドレスの交換をする。彼はまだ2ヶ月ぐらいアフリカをあちこち回るとの事。うらやましい。

 上り道は下り以上の難路。超急坂で路面も荒れていて、カーブもきつく、見通しが利かない。一方通行のはずなのに、途中なぜかすれ違う車がいて驚く。クレーターの管理をしている車だそうだが…。午後4時過ぎ、ンゴロンゴロワイルドライフロッジに到着した。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年12月24日 (日)

タンザニアの旅16 ンゴロンゴロワイルドライフロッジ

10月3日(火)

Ngorongoro Wild Life Lodge ンゴロンゴロワイルドライフロッジは、クレーターを一望できる絶好のロケーションに建っている。部屋にいながらもクレーターを眺める事が可能。レストランの隣にはテラスがあり、絶景を楽しみながらキリマンジャロビールを飲むことができる。改めてクレーターを凝視しても、あんなにいる野生動物の姿を肉眼でも望遠レンズでも確認することはできない。

 日が暮れてくると急速に冷え込んでくる。熱帯地域とはいえここは標高2000mを超える高地なのだ。寒暖の差が激しい。長袖の上着を着ていてもちょっと寒い。もちろん部屋に冷暖房などは無い。

Ngorongoro Wild Life Lodge  夕食のあと、午後8時過ぎからショーが始まる。やはり高校生ぐらいの子たちだ。踊るのは女子3名、男子4名、演奏は男子4名。しっかりと英語で挨拶をし、CDも販売する。自作のCD-Rだが、値段15$(記憶あいまい)はちょっと高すぎじゃないかな。踊りと歌のパフォーマンスの内容は、ジャンプの高さと、衣装の凝り具合、バック転、会場の盛り上がり度を評価して、ロボの圧勝だった。

 とうとう三日間のサファリも終わってしまった。明日はザンジバル島への移動である。

※ロッジなど観光客の利用する店の多くではUS$が使える。いきなり$で値段を言われることさえあるが、もちろんシリングで払うことも可能。1$=1000タンザニアシリングで換算されてしまう。為替レートは1$=1300シリングなので、だいぶ損をすることになる。支払いは極力シリングを使ったほうが良い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月25日 (月)

タンザニアの旅17 サファリの終わり

10月4日(水)

 ンゴロンゴロの朝はひんやりと気持ちいい。レストランでは、今日も朝食にスパニッシュオムレツを作ってもらう。タンザニアの卵は黄身が白っぽい。鶏の栄養状態の関係なのだろうか。出来たオムレツも白くて変な感じだ。牛乳は日本のもののように脂肪分は多くないから、コクはあまり無い。牛肉も硬くて噛むのに力がいる。もちろん外国人観光客向けの施設だから地元民一般の食事から見たら、考えられないぐらい豪華なのだが、それでも日本の普通の食生活がいかに恵まれているかよくわかる。オムレツを作っていたコックが、別の黒人に怒られている。作り方が悪いとケチをつけられているようだ。
 今日の出発は午前9時とゆっくりしている。朝のクレーターの風景を眺める。この素晴らしい景色も見納めだ。チェックアウトを済ませ玄関に出ると、Thadeusが話しかけてくる。「一人アルーシャまで行く人がいるから乗せてもいいか。」 妻によれば公共交通機関の乏しいアフリカだからこういう相乗りは日常茶飯事の事らしい。同乗者は見覚えがある。さっきコックを叱りつけていた黒人だ。彼はこのロッジのシェフだとの事。今日はアルーシャの病院に行くのだという。彼はケニアのナイロビ出身で、月に1週間は休暇がもらえナイロビに帰る事ができる。また月に1週間は家族がナイロビからンゴロンゴロに来て滞在していくとの事。とても恵まれている職場だ。

Buffalo2  出発して程なく、右手の草むらからニュっと黒い大きな顔が…。バッファローだ。至近距離でこちらを眺めている。顔に花びらのようなものをくっつけている。しばらくするとまた草むらの中に隠れて消えた。まるでわれわれにさよならを言いに出てきたかのようだ。バッファローに始まり、バッファローに終わったサファリだった。

Baobab  行きと同じ行程。外輪山を下りゲートを越えて、舗装道路に入るとほっとする。Karatuの先でまたみやげ物屋に立ち寄るが、やっはり何も買わずに終わる。大地溝帯の坂道の途中に立派なバオバブの木があり、記念撮影をする。通りがかりの自転車少年たちを捕まえて、一緒に写ってもらった。

 アルーシャの西はずれにある大型みやげ物店 African Heritage で休憩。シェフはここで下車していく。このみやげ物屋はさらに増築中で儲かっているようだ。ここの経営者もインド系の様子。アフリカ人は人に使われてばかり。残念ながらここでも買うものが無い。南アフリカだと可愛い動物のぬいぐるみやTシャツなどがあって手ごろな値段で買うことができるが、タンザニアでは木彫りや、ティンガティンガ風の絵や、アクセサリーなどが主体で、嵩張るから持ち歩くことを考えると躊躇してしまう。

 ずっと洋食ばかりだったので、ローカルフードを食べたいとリクエストしていた。タンザニアの主食はウガリと言ってとうもろこしの粉を煮て餅状にしたものだ。マラウイでは同じものをシマと呼ぶ。妻は市内の地元民向けの安食堂を期待していたが、なかなかそうも行かないらしく、立ち寄ったのは比較的高級な観光客向けのレストランだった。ここでメニューにはないウガリを出してもらう。おかずは私が(硬い)牛肉、妻が魚。おいしいが量が多くて半分ぐらい残してしまった。

Arusha  アルーシャの街中ではジャカランタの花が美しく咲いている。日本の桜のように、限られた季節にしか楽しめないのだと言う。市内にある Multichoice Safari の事務所に案内され、所長に面会する。従業員の評価を兼ねているようだ。左手にメルー山を見ながらキリマンジャロ国際空港へ。ここでThadeusとはお別れだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月27日 (水)

タンザニアの旅18 ザンジバル島へ

10月4日(水)
 キリマンジャロ国際空港はタンザニア北部のサファリへの玄関口なのだが、あまり立派な空港ではない。国内線待合室と事務所の間の壁のガラスには一面スワヒリ語の新聞が貼りつけてあり、みすぼらしさを助長している。我々は再びプレシジョン航空のプロペラ機に乗り、ザンジバル島を目指す。この飛行機はナイロビ(ケニア)→キリマンジャロ→ザンジバル→ダルエスサラーム→モンバサ(ケニア)と飛ぶようだ。いろいろな区間を利用する乗客に対応できるように効率よく考えられている。
 午後3時20分に離陸。キリマンジャロ山は残念ながら今日も雲の中らしく見る事ができない。プロペラ機は飛行高度が低いから地上の様子がよく見える。自由に蛇行する自然の姿のままの川の流れが美しいと思う。やがて飛行機はインド洋上に出て、ペンバ島の上空を通過し、続いてザンジバル島上空を縦断していく。島の北端がヌングイで、今日の宿泊地だ。美しい青い海、白い珊瑚礁の様子がよく見える。これからあの島を訪ねるのだ。
 高度を下げて着陸体制に入ると、まもなくザンジバル市の上空を通りすぎる。三角の形をしたストーンタウンの全体像を見る事ができた。その後すぐにザンジバル空港に着陸。ここで思いがけない事が起こる。普通に滑走路に着陸した飛行機は滑走路の端まで走るとそこで突然Uターン。今来た滑走路を逆走しはじめた。ターミナルの前まで戻ると左へ曲がり停止した。つまり駐機場から滑走路端までの誘導路が無く、滑走路自体が誘導路を兼ねているのである。
Zanzibar_airport  外に出ると熱帯の強烈な日差しにくらくらする。しかしカラッとしているためか、覚悟をしていたほどには暑くない。でも日焼けには注意が必要だ。歩いてターミナルに入ると荷物受取場があるが、ターンテーブルは無くカウンターになっている。カートで運ばれてきたラゲッジはカウンターの上に置かれるので、どこに置かれたか見て自分で取りに行く形だ。プロペラ機ばかりだからこんな設備でも大丈夫なのだろう。しかし待てど暮らせど我々の荷物が出てこない。回りを見ると他にも荷物の出てこない人がいるようだ。ここで終着の便では無いからそのままにしておくと、ダルエスサラームに行ってしまう。空港の係員は「もうこれで終わりだ」などと言うのでみんなで「ふざけるな」と文句を言うと、数分後ようやくおろし忘れたカートが運ばれてきた。(アフリカ人は仕事が遅い。)
 やっとの事でターミナルの外に出ると、JATA Toursから依頼を受けた Mzee氏が安心した様子で声をかけてきた。「なかなか出てこないから心配したよ。今 Nemoto から電話が入っている。」との事で携帯電話を受け取る。電話の向こうは JATA Toursの根本さん。「旅の様子はどうですか。」「今までは全て順調。ちょっと今荷物がピンチでしたが、それ以外は完璧です。」「よかった。まあ奥さんがアフリカに慣れている方なので、細かなトラブルへの対処は大丈夫でしょうが。気をつけて旅を楽しんでください。困った事があったら電話して下さい。」といったようなやりとりをする。やっぱり近くにサポートしてくれる日本人がいるという事はとっても心強い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月30日 (土)

タンザニアの旅19 スノボキャリア付きエスクードで南の島を走る

10月4日(水)

 ここからの旅はレンタカーを使う。海外でのレンタカーの運転は、マラウイ、サムイ島(タイ)に続いて3回目である。いずれの国も左側通行、右ハンドルで日本と同じだ。タンザニアはジュネーブ条約に加盟していないため、国外免許証が使える国のリストには入っていないが、実際には何の問題も無いようだ。
Escudo  Mzee氏に案内されて駐車場に行くと、停まっていたのは初代スズキエスクードノマドである。私は平成元年から8年間 エスクード(3ドア MT)に乗っていたので、とても懐かしい。MT車だろうと聞いていたのだが、残念な事にAT車だった。車体後部には「岸和田スズキ販売」のステッ カー、屋根にはスノーボードキャリア付きと、日本で使われていた時のままの姿だ。こんな南の島でスノボキャリアとは…無用の長物。
 日本のレンタカーは満タン貸し満タン返しが基本だが、ここでは 空っぽ貸しの空っぽ返しが基本である。マラウイでもタイでも同じだった。保有している車のタンクを常に満タンにしておくのは経費の無駄だし、車やガソリンを盗難される可能性も ある。カラで貸せば客が多めにガソリンを残す事も期待できるだろう。

 というわけでまずはMzee氏の先導でガソリンスタンドへ。ガソリンの値段は1L=1300シリング =1ドルぐらいである。ガソリンの質が悪いらしいので、燃費を10km/Lと推測してとりあえず30L給油する。

 わかりやすい場所までMzee氏が先導してくれるとの事でついていく。ザンジバル市の東側を南北に結ぶ道路を走っているようだ。信号機のついた交差点というものは無く、大きな道の交差は基本的にラウンドアバウト(日本ではロータリーと呼ぶ)になっている。すなわち道路の交差する部分はリング状になっており、車はすべて左回りにこのリングに入ってくる。リングの入り口では右から来る車が優先である。左折は90°、直進は180°、右折は270°このリングを回ってから、左へ出ればよい。

 町外れのはずだが車も人も自転車も多く、ダラダラ(乗り合いミニバス)が道の脇に停まっていたりで、走りにくくて、くたびれる。マラウイでさんざん慣れたつもりだったが…。Mzee氏についていくのも結構大変だ。島の北部へ向かう道路との交差点の少し手前でMzee氏とはお別れ。ここからは簡単なロードマップが頼りだ。

 目的地の ヌングイ Nungwi は島の北端。空港からは70kmぐらい離れている。北へ向かう道を進むと間もなくブブブという変な名前の町を通る。この町は以前鉄道が通っており、蒸気機関車の煙を吐く様子からBUBUBUという地名がついたのだと言う。この町にはハンプが作られているのでみんな車は徐行。隣国マラウイではこのぐらいの規模の町にはたいてい ptc と言う小さなスーパーマーケットがあって便利だったが、タンザニアでは見かけない。
 この先Mahondaというところで右折なのだが、頼りは村の名前が書かれた小さな看板だけ。日が暮れて来たので運転はいっそうの困難を極める。もちろん街灯など無いし、路面はところどころ傷んでいるし、相変わらず人は多い上、夜の黒人は闇にまぎれて見えにくい! ようやくMahondaの看板を見つけたが、後ろからはダラダラが猛烈な勢いで追いついてきた。道を譲ろうかどうか悩んでいるとき、右折する予定の交差点が来たため、少し慌てて普通のT字路のように曲がってしまった。その時何故か道の真ん中、車の左側に縁石で囲まれた小さな部分が…ひょっとしてこれは!?

 運悪く、曲がった先はすぐ検問所になっており、警察官に車を停止させられる。ラウンドアバウトを逆送してしまったのだ。英語とスワヒリ語を取り混ぜていろいろ謝ったり、言い訳したりして、何とかお咎めなしで済ませることができた。(ザンジバルでは幹線道路の所々に検問所がある。特に何もしていないことも多いが、行き先を尋ねられたり、免許証を確認されたりする場合もある。)

 この先もう一箇所右折するところがあるが、よくわからないので怪しい交差点を見つけるたびに地元の人に聞いて道を確認する。だんだん家も少なくなる。もう真っ暗だが集落は多くの人出があり賑わっている。やがて道は未舗装になった。一旦停止してエスクードの副変速機を4WD・Hに入れる。さらにしばらく走るとヌングイの集落の入り口に到達。Y字路になっている。宿泊する Amaan Bunglows はどこだ??看板は見当たらないのでまたまた地元民に尋ねる。(たくさんの人が歩いているので助かる。)斜め左へ進む道を指差して Moja kwa moja. 真っ直ぐ と教えてくれる。Asante.ありがとう。その道は村の家の間を進む生活道路。砂地の上に凹凸が激しい。副変速機を4WD・L(ギア比が1.8倍の低速レンジ)に入れてゆっくり進もうと思うが硬くてシフトが入らない。仕方ないのでそのまま4WD・Hで進む。全く案内が見当たらないのでまた地元民に尋ねると、真っ直ぐだと言うので、とにかくどんどん集落の中に進んでいく。ようやくいくつかのバンガローがあらわれ、更に真っ直ぐ進むと突き当たりに Amaan Bungalows の門が見えてきた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

タンザニアの旅20 アマーンバンガロー到着

10月4日(水)
 ようやく到着した Amaan Bungalows だが、門扉が閉まっている。人は出入りできるように通用口は開いているのでそこから入ってみるが、ゲートキーパーの詰め所には誰もいない。困った顔をしていると、近くにいた黒人がゲートキーパーを探してきてくれた。(アフリカ人は優しい。) 駐車場に車を停め、レセプションに行くとここも鍵がかかっていて誰もいない。どうなってるの?? 近くのレストランのスタッフに声をかけると、受付担当をつれてきてくれた。
 ようやく謎が解けた。今はイスラム暦の9月。ラマダン(断食月)なので、イスラム教徒は夜明けから日没までは飲食ができない。日没後のこの時間帯は食事を摂るために休憩時間になっているのだそうだ。これまで見かけたあちこちの町や村が夜に賑わっていたのもそのためだったのだ。
Amaan_1  やっとチェックインを済ませ部屋に案内される。最高級の PREMIERE SEAVIEW ROOMS を予約していた。朝食付きで2名1泊160USドルとなかなかいいお値段だが、ここでは一番新しい部屋で、海の上に突き出たバルコニーが付いている。引き潮の時は写真のような状況だが満潮になると岸壁まで波が押し寄せる。部屋はベッドルームとバスルームだけだがとても清潔に保たれている。蚊帳もおしゃれで、レースのような白い生地に四角のフレーム付きで圧迫感が無い。バスタブこそ無いが、固定式のシャワーと電気温水器がある。水道水はかなり塩分が多く、石鹸の泡は立たない。

 一息ついたところで、夕食に出かけよう。敷地内には2つのレストランがある。オフシーズンのためかコーヒーショップはお休み中。土産物屋にはカンガや石鹸などが売られている。敷地の外は、隣のバンガローと隣接しているが、どうやらAmaanがこの村では最大級のリゾートのようだ。結局食事は Amaan 内のレストランで摂ることにする。

 サファリの客は中高年が多かったが、ここはスキューバやシュノーケリングのメッカだから白人も若者が多い。黒人の若者も多く出入りしていて活気がある。挨拶も若者言葉が飛び交う。"Mambo? 元気?" "Poa! 最高!" 私がスワヒリ語を使うと、とても喜んで会話が弾む。もともとスワヒリ語はザンジバルの言葉。今は東アフリカで広く使われているが、ここがスワヒリ語の本場なのだ。

 タンザニアの初代大統領のニエレレ氏は、自分の出身地の言葉ではなく、政治的に対立する恐れのあるザンジバルの言葉を国語に選び、国民教育をスワヒリ語で行った。自らも
スワヒリ語を学び、スワヒリ語でスピーチを行った。日本で言えば東京出身の大統領が関西弁を国語にし、関西弁をしゃべるようになったようなもの。民族紛争が少なく無いアフリカの中で、タンザニアの秩序が良好に保たれてきたのはスワヒリ語教育の賜物でもあるとの事。

 今まで回った北部タンザニアではスワヒリ語は他民族とのコミュニケーションのための標準語。英語を習得した人にとっては、外国人とは英語で会話をするほうがクールなのだろう。しかしザンジバルではスワヒリ語は地元の言葉で、誇りを持っている。旅行者にもスワヒリ語で挨拶してくるから、こちらもだんだん緊張が取れて気軽に話せるようになってくる。

私 「Ngoja kidogo. ちょっと待って。」
ウエイター「Ngoja kidogo? Unasema kiswahili ! スワヒリ語話せるの」
私「Nasema kiswahili kidogo tu. ちょっとだけね」
ウ「Mnatoka China? 中国からきたの」
私「Hapana. Tunatoka Japani. 日本からだよ」
ウ「How do you say 'Ngoja kidogo' in Japanese」
妻「'ちょっと待って' 」
ウ「Chotto matte?」
私「'Chotto' ni kidogo na 'matte' ni ngoja」
妻「これも覚えて。Chotto, chotto chotto」
私「おいおい、アフリカ人にざ・タッチ教えてどうすんだい。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 3日 (水)

タンザニアの旅21 ヌングイ水族館

10月5日(木)

 夜は暑さを覚悟していたが、意外と快適に過ごすことができた。深夜に満潮だったので、岸壁に打ち寄せる波の音が頭に残っている。

 朝食は宿泊費に含まれているのでレストランに行く。ビュッフェでは無く、お決まりのメニューだが卵料理、サラダ、フルーツ、パン、ジュース、コーヒー(例によってインスタント)と、高級とは言えないがまあまあ充実している。朝のインド洋を眺めながらの食事は幸福な気分だ。

 レセプションの横にツアーデスクがあるので、シュノーケリングをやりたいのだがと相談する。ここの浜ではシュノーケリングはできず、朝8:30に出発し東海岸のムネンバ島の近くのスポットまで船で行くのだそうだ。あいにく今日の船は出た後だったので、明日のツアーを予約しておく。今日は島の中を巡ることにしよう。

Sea_turtle  エスクードを走らせて最初に向かったのは、ヌングイの町はずれにある水族館。別れ道には立派にAquariumと看板が出ているが、水族館と言っても、海とつながった池にウミガメがいるだけである。たぶん世界最小じゃないかと思われる。入場料を払うとそのまま池に案内してくれる。池の縁は急な階段になっていて、かがんだ時に自分のお尻がぶつかって危うく落ちそうになる。餌につられて寄って来たウミガメは、水面から引っ張り出されて客と握手をさせられる。ウミガメの方はとても迷惑そうだ。

Snake  その隣には、一匹だけニシキヘビが飼われている。記念写真を撮りたいかと言うので、そうだねと言うと、ヘビのために gift をくれと言うので、追加でチップを払って、ヘビを首に巻いて(本当は前からあてているだけだが)記念撮影をした。毒蛇ではないので怖くは無いが、ひんやりした肌触りはあまり気色のよい物ではない。まあこういうのも経験である。近くで遊んでいた子供たちも蛇を見に集まって来た。妻が唐突に"クソマ、ニクズリ!"と叫んだが、通じてなくてキョトンとしている。教科書に載っていた例文の"Kusoma ni kuzuri. 勉強することは良いことです。"だが、何の脈絡も無く変なイントネーションで言われたらちんぷんかんぷんである。後からみんなで大笑い。

 ジョザニの森までは島の東海岸に沿って南下しようと思ったが、行ってみると未舗装の悪路だったので、さっさと退散してメインの道に引き返す。行きと違って昼間だし、道は突き当たりを左折すればよいので、Bububuまでは道に迷うことは無かった。走りながらスーパーマーケットのような商店を探すが、やっぱり見当たらない。

 ザンジバル市街地に入る手前で左折。(昨日行きに右折した交差点だ。) ここは比較的わかりやすく、よく見ると小さくAirportの標識が出ていたので良かったが、その先が問題だ。目的地のジョザニの森は島の東側。今走っている道は南に向かっているので、途中で東海岸へ向かう道路に左折しなければならない。大き目の交差点はすべてラウンドアバウトになっていて、真ん中には同じデザインの時計が設置されている。目印になるような建物も、親切な道路標識も無いので、どの交差点も全く同じに見える。ヤマ勘で左折。すぐにガソリンスタンドがあったので、給油がてら道を尋ねてみると、大間違い。20L給油してもと来た道を戻り、ラウンドアバウトを左折、また適当に左折して道端の人に尋ねる。"Tunataka kwenda Jozani. ジョザニに行きたいんだけど。" "Moja kwa moja. 真っ直ぐだよ。" 今度は正解だった。やっぱり道は人に聞くのに限る。そしてみな親切に教えてくれる。

Fruits  途中道端でリンゴを売っていたので車を停めて買いに行く。小さなリンゴを2個で10円ぐらいと、やはり地元民向けの物は安い。リンゴをかじりながら、林の中を進むとサルに注意の看板が現れる。程なくジョザニ国立公園の入り口だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 8日 (月)

タンザニアの旅22 ジョザニ保護区

10月5日(木)

 ザンジバル島には高い山は無い。人口密度も高いので自然の森林が残っている場所は少ないようだ。保護区となっている Jozani ジョザニの森には、大型の動物はいないが、蝶、鳥、そして貴重な(ザンジバルでわずかに約1500頭)レッドコロブスが生息している。レッドコロブスは最近日本のテレビ番組でも紹介された事がある、特殊な行動をする猿の一種である。このコロブスは他の動物は食べない毒のある未熟な木の実を食べるのだと言う。驚くべきことに、それを解毒するために炭を食べるのだそうだ。

 保護区の入り口の駐車場に車を停める。客は少なく閑散としている。とにかく暑い。近くに売店があり、店員が二人暇そうにしている。しかしラマダンの影響で飲食物は販売していない! 店員に受付の場所を教えてもらう。事務室に通され、いろいろ説明を受けながら書類を書かされ、入場料を支払う。見学は①レッドコロブス、②森の植物、③マングローブの森 の3つのセクションに分かれており、希望するセクションだけ案内するとの事。この後の日程を考え①と③を選択した。

Colobus  ガイドの案内で建物の外に出る。歩いて森に入るのかと思ったら、車に乗れと言う。保護区の用意する車に乗るのかと思ったら、自分たちのレンタカーに乗り、ガイドが後部座席に乗るのだ。さっき入ってきた入り口の道を戻り、舗装道路を横切って反対側の未舗装路に入る。50mほど走ったところで、車を停める。なんだ随分近くじゃないか。歩いてほんのわずか数m森に入ると、樹上にレッドコロブスの群れがいた。なーんだこんなに近くにいたんだ。6-7頭のレッドコロブスががさがさと動き回り木から木へと飛び移る。毛がふさふさしていて尻尾が長くて可愛らしいが、行動には注意が必要だ。頭上から突然のシャワー。慌てて逃げると、続けざまに今度は大便が降ってきた。やれやれだぜ。

Mangrove  ①のコロブスの観察はあっと言う間に終わってしまった。車に戻り、更に奥へ数百メートル進む。車を降りて遊歩道を歩くと涼しい森に入る。湿地になっているがこの水は海水である。2kmほど離れた海から流れ込んでくるのだ。マングローブは河口や海辺に生育するのが特徴で、写真のようにかご状にに発達した根が水中から伸びて、潮の干満に対応できるようになっている。湿地にはサワガニぐらいの小さなカニが住んでいた。

 車で保護区の駐車場まで戻る。ガイドはすぐには車を降りようとしない。ひょっとしてと思い妻に話しかけようとしたその時、突然外から別のアフリカ人が駆け寄って来た。
ア 「やあ、また会ったね。」
私 (誰だっけ??)
ア 「Mzeeのbrotherだよ。昨日空港でこの車を渡すときに会っただろ。車の調子はどうだい。」
私 「問題無い。調子はばっちり。」
ア 「それは良かった、じゃあまたあさって空港で会おう。」
私 「ありがとう。」
妻 「ガイドさんもありがとう。もう行ってもいいよ。」
ガイド (さびしそうに降りて行く…)
私 「ねえ。」
妻 「何?」
私 「ガイドは、チップが欲しかったんじゃない?」
妻 「そうか。全然気がつかなかった。」
 Mzee's bros. のおかげでチップをもらい損ねた可愛そうなガイド氏であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月14日 (日)

タンザニアの旅23 ストーンタウン1 ATMとレストラン

10月5日(木)

 ジョザニの森を出発して、再び進路を西に取る。目指すはザンジバルの中心、ストーンタウンだ。昼を過ぎて、おなかもすいてきた。暑さの為に喉も乾いているが、ラマダンのため沿道での飲食は期待できない。我慢して車を進める。途中後ろから猛烈な勢いでダラダラ(乗合マイクロバス)がやってきて猛スピードで追い抜いていく。日本の幼稚園バスだ。かわいい動物の絵が書かれたバスが、アフリカの島で、たくさんの黒人を乗せて爆走している。ダラダラは集落ごとに人の乗り降りがあるため、停まった園バスを追い抜くことになるが、しばらくするとまた後ろから猛スピードで抜かれる。このあとも何度もこれを繰り返す事になった。

 行きと同じ道を戻るが、ザンジバル市街地に近づくと、例によってたくさんのラウンドアバウトが出現する。ストーンタウンは三角形の半島の先端部分にあるので、とりあえず西と思われる方向に進んでいけばたどりつけるはずだ。信念を持って進んでいくと、かなり賑やかな通りに突き当たる。おそらくこれが旧市街と新市街の間にある通りだろうと考え、記憶の中の地図をたよりに右折。突き当たりまで行くと港に出たのでそこを左折して右手に海を見ながら進んでいく。左手に大きな建物が見えてきた。これが House of Wonder だろう。運良く近くに駐車スペースを見つけて車を停める。ガイドブックの地図と見比べて、現在位置が House of Wonder の隣、アラブ砦の壁の前である事が確認できた。(一発でここまでたどりつけたのは我ながら素晴らしい!)

 手持ちの現地通貨タンザニアシリングが少なくなってきたので用意したい。ドルでも決済できる店が多いがレートが悪く、1ドル1000シリングで会計されてしまう。(実際は1ドル1300シリングぐらいなのだ。)ガイドブックを見ると近くに銀行がある。さっそく行ってみると、ラッキーな事にATMもあった。ATMの前では銃を持った警備兵?が番をしており、安心なような恐ろしいような…。無事シティバンクのキャッシュカードでお金をおろすことができた。

Stonetown1  次は遅めの昼食だ。ガイドブックを見ながら外国人向けの店が多い通りの方を目指す。地図で見ても迷路のようなストーンタウンだが、実物はもっと複雑な上、道は細く、人も多く、車も入ってくるのでうかうかしていられない。CDを買ってくれと言って黒人の若者が近づいてきた。妻は慣れたもので、彼にレストランへの道案内をさせる。ホテルの中に入っていくと停電で真っ暗。2階に上がるとオープンテラスのレストランがあり、白人の観光客で賑わっていた。ここなら大丈夫そうだ。ラマダンのため外国人向けの店しか開いていない上、計画的停電のため日中は電気が来ていないらしい。ここは自家発電でしのいでおり、近くでジェネレーター(発電機)が唸りを上げている。(銀行のATMが動いていたのは何故だろう。)
若者にチップをあげるが、なおもCDを買えと言ってくるので妻が強い口調で断る。さすが、マラウイで2年間暮らしていただけの事はあり手慣れている。

Stonetown2  2階からの海の眺めは素晴らしい。真昼の海は灼熱の太陽でギラギラしている。日なたは強烈に暑いが日蔭にいれば意外と快適だ。遠くにダウ船が見える。パスタとサンブサなどを注文する。サンブサは三角形の揚げ餃子風の料理で、インドのサモサが伝来したものだろう。他にもチャパティなど、インド由来の料理は多く、インド洋交易の歴史を感じさせる。インドとアフリカがこんなに繋がりが深いとはこれまで知らなかった。かつて交易に活躍したダウ船は、今でも現役で近海の輸送や漁業、観光などに活躍している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月16日 (火)

タンザニアの旅24 ストーンタウン2 プジョー304と奴隷市場跡

10月5日(木)
Stonetown3  昼食を済ませて通りへ戻る。物珍しい光景を撮ろうと、カメラを手に持ってキョロキョロしながら歩いていたら、妻から注意された。
妻「ここは貧しい人も多くて危険なんだから、そんなふうに無警戒で歩いてたら、腕ごと切られて持ってかれちゃうよ。みんな生きていくのに必死なんだから。特に狭い通りは注意しないと。」
私「はい、スミマセン。あっ、古いプジョーが2台も停まっている。」
妻「ちょっと、あなたちゃんと話を聞きなさい。一人で置いてくよ。」
私「ごめんなさい。」
写真に写っている2台のプジョーは304。私の乗っている307から見たら、3世代前のモデル。最終製造は1980年だそうだから、約30年前の車だ。ぼろぼろになりながらまだ現役で活躍している。同じプジョーに乗る者としては何だか嬉しい気分だ。

Stonetown4  雑然とした路地を抜け大聖堂へ。ここはかつて奴隷市場だった場所だ。ここザンジバルはアラブ商人による奴隷貿易の拠点だった。内陸から連れられてきた黒人たちは、地下室に集められ、市場で選別され輸出された。そんなザンジバルの暗い過去がこの場所には秘められている。大聖堂の隣、みやげ物店やレストランとして使われている建物の地下には、奴隷が捕らわれていた暗い地下室が今も残り、見学する事ができた。鎖をつないでいた金具も残っている。

 狭い路地を歩いていく。通りの両側には商店が連なって、日用品などの他に、みやげ物のアクセサリーやティンガティンガや風刺漫画のような絵が売られている。ラマダンのため飲食物は売られていない。停電のため店の中は真っ暗だ。House of Wonder に戻ろうと、路地を曲がる。あまり人通りの無い道に来てしまったようだ。前方から自転車に乗った若者がやってきて、すれ違いざまに「ここで写真を撮ったな。金を払え。」と英語でいいがかりをつけてきた。私が戸惑いながら若者をにらみつけている間に、妻がすかさず英語で応酬し追い払う。さすがである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月18日 (木)

タンザニアの旅25 ストーンタウン3 驚嘆の家(国立博物館)とトルコ式浴場

10月5日(木)

 アラブ砦の裏側から車を停めた場所に戻る。車には特に異常は無いようだ。すぐ隣の House of Wonder 驚嘆の家は、1833年建築にスルタン(イスラム社会での最高権力者)の公邸として建てられたもので、現在は国立博物館になっている。中に入るとここも停電しており、窓から入る光が頼りだ。

Stonetown5 受付で入場料を払うと、黒人の青年が近づいてきて唐突に内部の解説を始める。押し売りガイドだなと思ったが、まあ解説が有った方が分かりやすいのでそのまま彼に案内してもらう。展示物はザンジバルの風物や歴史に関する物。スワヒリ語における外来語の変遷なども示されていて面白い。ポルトガル植民地時代にはポルトガル語が、オマーン帝国の支配下にあった時はアラビア語、そしてイギリス植民地以降は英語の影響を強く受けている事がわかった。閉館時間まで1時間しかなかったので、広大な内部をゆっくり見ている時間は無い。ガイドは足早に次々と進んでいく。ガイドと妻がしゃべりっぱなしなので、私はあまり口をはさむタイミングも無く、所々自分の興味のある展示をじっくり見たり、スワヒリ語の解説文と英語の解説文を見比べて見たりした。ザンジバルを理解するためには必ず訪れてほしい場所だと思う。

Stonetown6  3階まで上がるとテラスに出ることができる。やっと暗闇から開放される。港はたくさんの船で賑わっている。やや大きな旅客船なども見える。左へ回っていくと、隣のアラブ砦の中がよく見える。城壁の中は劇場のようになっていて、飲食もできるようだ。残念ながら今回は中に入る時間は無さそうだ。写真の右下隅に我々の停めたエスクードが写っている。更に裏に回り込むとストーンタウンの町並みを見下ろすことができる。世界遺産に登録され、補修工事も行われるようになったようだが、外壁やトタン屋根などの状態は必ずしも良好では無い。ぐるりと一周回って建物内に戻れば博物館の見学は終了だ。

 しかしガイドの案内はまだまだ続く。ストーンタウンには複数の宗教が共存しそれぞれの施設がある。イスラム教はモスク。キリスト教(アングリカン)の教会は先程訪れた。その他にインド系の人はヒンドゥー教を信仰しているので寺院もある。案内してもらったヒンドゥー教の寺院では、ちょうどお祈りの真っ最中だった。

 次に古いトルコ式浴場の跡を案内してもらった。ガイドは入り口では入場料のディスカウントまでしてくれた。停電のため真っ暗だが、天井に開けられた穴から光が差し込んで来る。内部は脱衣所、浴室、洗い場(アカスリ所)などに別れており、細い通路が通じている。係員にガイドブックを買うかと言われたが、たぶん帰ってから読むことは無いと思い断った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月21日 (日)

タンザニアの旅26 ストーンタウン4 ヘンナと露店バーベキュー

10月5日(木)

Stonetown7  午後6時前になり、だいぶ日が暮れてきた。妻がガイドにヘンナをやってくれる所が無いかと尋ねると、快く案内してくれた。狭い路地でカンガを売っているお店の女性に声をかける。さっそく値段交渉。5000シリング(約500円)で交渉成立。ここでガイドは後でまた戻ってくると言って出かけて行った。ヘンナとは植物性の色素で毛染めにも使われている。この色素を使ってボディペインティングしてもらうのである。見本帳を見ながら気に入った模様を選ぶ。女性は小さな容器に色素を溶かし、マッチぐらいの細い棒を使って模様を描いていく。筆ではなく棒を使うのはアラブ文化の影響だろうか。

Stonetown8  小さな男の子が回りでうろちょろしている。女性の子供のようだ。お母さんの気を引こうとして、色素の容器をいたずらしようとしたり、あたりをはい回ったり落ちつかない。母親もだんだんイライラしてきて、ヘンナをしてもらっている妻も気が気ではない様子なので、写真を撮ったり、抱き上げたりして遊んであげる。鼻ペシャで、目がクリクリしていて可愛い。しかし地べたで転がって遊んでいるものだから手足も服もかなり汚いぞ。まっいいか。近くにいる女の子は姉のようだが、こちらは大人しくて、恥ずかしがり屋みたい。話しかけてもうつむいてしまう。そうこうするうちにガイドも戻ってきてヘンナ描きも終わった。

 近くの店で小さな動物フィギュアのアクセサリーを購入。値段交渉はスワヒリ語で挑戦。かなりディスカウントしてもらう事ができた。

 House of Wonder の前に戻るとガイドとはお別れだ。押しかけガイドだったが、色々とお世話になり、効率よくストーンタウンを楽しむ事ができた。知識も豊富だった。チップとして5000シリング渡すが、もうちょっと欲しいというので、いくら欲しいかと聞くと7000シリングだという。はっきりしていていい。あいにく大きな札しか残っていない。考えた末、2USドル(約2600シリング)を追加であげる事にした。

 House of Wonder の海側には公園があって、日没と同時にシーフードのバーベキュー屋台が多数開店する。今日の夕食はここで食べる。白人観光客も集まってきて、大いに賑わっている。縁日みたいだ。

 サトウキビの絞り汁も売っていた。確か50シリング(約5円)だったか驚くべき安さである。氷も入っていて、甘くて美味しい。(しかし後から思ったが、この氷、ミネラルウォーターで作っているはずも無いから本当は危険な飲み物である。幸い何事も起こらなかった。) 屋台で希望のネタを注文するとその場でバーベキューにして、席に運んでくれる。座席は岸壁のぎりぎりに作られており、背もたれなんてついていないから、海側の席の人は気をつけないと背中から海に落ちてしまう。港を見ながら食べる焼きたてのシーフードの味は格別だ。やっぱり海はいいね。

 午後7時ごろまで遊んでしまい、昨日以上に帰りが遅くなった。エスクードを運転してヌングイに戻る。夜の運転はやっぱりかなり疲れる。最初にいきなり倉庫街みたいな所に入り込んでしまい、危険を感じてあわててUターンする。街灯も無い道路だが、道端にはたくさんの人が歩いている。夜の黒人は保護色になって、闇に同化している。道は概ねすれ違い可能な幅があるが、橋の所だけ狭くなっていたりする。途中からは昨日と同じ道。昨日交通違反で捕まりそうになった Mahonda のラウンドアバウトは今日は間違えずに大回りで通過。しかし今日は警察はいなかった。その後のもう一カ所の右折は相変わらず自信が持てず、何度か停まって歩行者に確認しながら進む。Amaan Bangalows にたどりついたのは8時40分だった。

Bed1  部屋に入ると素敵にベッドメーキングされている。タオルで白鳥を作り、花が飾りつけられ、花びらが散らしてある。掃除を担当する若い女の子たちの力作のようだ。Asante sana. ありがとう。

 さあ、明日は海で遊ぼう。Lala salama. おやすみなさい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月24日 (水)

タンザニアの旅27 ムネンバ島シュノーケリング

10月6日(金)

Nungwi_beach  7時30分に朝食。メニューは昨日と同じだが、フルーツの種類が少しだけ変わっている。水着に着替えて、8時30分に海岸に集合した。我々以外はみな白人。足のサイズに合うフィンを選び、ゴーグルとシュノーケルを一つずつ確保する。が、いっこうに出発する気配が無い。アフリカ人のスタッフは何の説明もしないで海の方を眺めている。(アフリカ人は仕事が…)ようやく9時すぎに船が来たらしい。引き潮なので船は岸の近くまで来る事ができないので、50mほど浅瀬を歩いて船に向かう。全員乗り込んだらようやく出発だ。

 船はヌングイの西海岸を出発し、北側の岬を回り込んで、東海岸のムネンバ島に向かう。木造船に船外機を付けただけの船はあまりスピードが出ない。間近にダウ船が見える。(写真集の24枚目) 岬近くの浅瀬ではたくさんの女性たちが水に浸かっている。海草か何かを採っているようだ。漁師町の風景は日本と似通っている。西側の海は穏やかだったが、東側は外海なのでうねりが出てくる。ちょっと船酔いが始まる。

Dolphin  その時 "Dolphin !"の叫び声。船の近くをイルカの群れが泳いでいる。船酔いなどと言ってはいられない。揺れる船の上で足を踏ん張って写真を撮るが、なかなか良いタイミングをとらえる事ができなかった。イルカたちは数分間我々の船と併走すると波間に消えて行った。頑張って写真を撮ったおかげで船酔いはますますひどくなってしまった。

 途中船の船外機が停まってしまう。予備の船外機もなかなか始動しない。数分間漂流している間に他の船が追い抜いていく。何度か止まったり動いたりを繰り返し、ようやく目的地のムネンバ島に到着したのは既に11時過ぎだった。

Mnemba  船が止まったので船酔いはちょっと落ちついてきた。珊瑚礁の海は透き通り、信じられないほど美しい。ここで一本目、30分間のシュノーケリングタイム。フィンとゴーグルを付けて海に入る。私は1年前にタイのパンガン島でシュノーケリングをしたのが唯一の経験。その時は立てば足が着くぐらいの水深だった。船上からは浅く見えた海だが、入ってみるとかなり水深が深く、5m以上ありそうだ。ゴーグルのフィッティングも悪かったので、海水が入り込んで来てしまった。とりあえず体制を建て直そうと、水面から顔を出しながら船まで泳いで戻る。すると妻が慌てた様子で近づいてきた。溺れていると思ったらしい。助言に従いライフジャケットを付けると、確かに気が楽になった。その後は、じっくりと美しい魚たちや、サンゴの様子を観察する事ができた。周囲の白人たちは皆ベテランらしく、深くまで潜って海底に触ったりして楽しんでいる。

 少し場所を移して2本目。水中の光景は本当に美しい。いつまでも眺めていたいとも思うが、案外水は冷たく、だんだん寒くなってきたので船に戻る。ハシゴを上ろうとするが、足が疲れていてなかなか力が入らない。もがいていると、船の上から白人の女性が引っ張り上げてくれた。完全にグロッキーだ。

 ザンジバル島側のビーチに上陸して昼食となる。チャパティや、魚のバーベキューなどが用意されていた。しかし疲労困憊で全く食べる気がしないので、岩陰で横になって休む。ようやく少し体が楽になった。

 帰りの船では醉う事も無く、午後4時過ぎに無事にヌングイに帰着した。とにかく疲れたが楽しかった。しかしもうちょっと泳ぐ練習や、体力トレーニングをしないと…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月27日 (土)

タンザニアの旅28 ヌングイのサンセット

10月6日(金)
Bedmaking  バンガローの部屋に戻ると、今日も近くに咲いている花を使って凝ったベッドメーキングが施されている。担当の女の子たちに会ったらお礼を言わなくては。

Henna Mtoto  まだまだ明るいので敷地内を散策。黒人の婦人が二人通りがかったので、妻が呼び止める。ヘンナができるかと尋ねるとできるという。昨日は右腕にやってもらったので、左腕にもやってもらうことにした。今日は花の模様。かなり精巧に描いていく。昨日のおばさんよりも上手だ。彼女たちも小さな子供を連れて歩いている。やんちゃの子供は隙を見て悪戯しようとするので、お母さんはヘンナを描いたり、子供を叱ったりで忙しい。
※後日談 日本に帰ってから10日ぐらいしてから、ヘンナの部分が赤く腫れて盛り上がり、強烈に痒くなった。接触性皮膚炎、いわゆるかぶれである。以前にやってもらったときは大丈夫だったとの事だが…。もちろん、今後ヘンナ色素を含む毛染め剤などの使用も禁止である。

Sunset  再び部屋にもどると窓から西日が差し込んでいる。バルコニーに出てみるとちょうど日が沈む所だった。沖合にはサンセットクルーズを楽しむダウ船が静かに航行している。(帆船だから音がしない。) カメラを取り出して撮影してみる。デジタルカメラの利点で、いろいろ条件を変えて、その場で仕上がりを見ながら何枚か撮影してみたが結構難しい。露出の調節や、海と空の配分、通る船との位置関係など、なかなかうまくいかないものだ。この写真は海に反射する光線と船のシルエットがメインに、写真集の26枚目は太陽の輪郭や空と雲の色がメインなるように撮影してみた。

 やがて日も暮れ、レストランでアフリカ最後の夕食。陽気なウエイターとのやりとりを楽しみ、料理とキリマンジャロビールを賞味する。楽しかったタンザニアの旅もいよいよ終わりが近づいた。明日は帰国だ。シュノーケリングで疲れたのでゆっくり眠ろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月30日 (火)

タンザニアの旅29 さよならザンジバル

10月7日(土)

 朝食を食べるために外に出ると、部屋当番の女の子二人が箒で掃除をしているところだった。ベッドメーキングのお礼を言って、チップをあげる。今朝の朝食もメニューは同じだが、この白いスパニッシュオムレツを食べるのもこれが最後だ。

Escudo_1  エスクードに荷物を載せ、空港へ向け出発。ヌングイからストーンタウンへ向かう道もこれでもう4回目だ。空港へはストーンタウンの手前で左へ曲がる。そこから先がまた難しい。いくつものラウンドアバウトを通り抜け、南へ進む。Airportの看板が出ていないか目を凝らすが見当たらない。山勘で左へ入ってみると、これが大当たりで、ばっちり迷わずザンジバル空港に着くことができた。だんだん勘も冴えてきたようだ。

 道に迷わなかったので11時前に空港に到着した。Bwana Mzee とは11時30分にレンタカーを返す約束だったので、とりあえずチェックインを済ませる事にした。こことダルエスサラームの間にはいくつかの航空会社が就航しており(といってもセスナ機みたいな飛行機だが)、客引きも盛んだ。もう航空券を持っているからと断って、プレシジョン航空のカウンターに行く。

係員 「前の便が空いているからそれで行くか。」
(確かにここにいても土産も買えないし暇だ。)
私 「そうします。」
係員 「あー、お前たちの名前はこの乗客リストに印刷されていないから乗れない。」
私 「馬鹿いうな、ちゃんとここに航空券があるだろう。」
係員 「リコンファームはしたのか。」
私 「ダルエスサラーム空港で聞いたらリコンファームしなくていいと言っていたぞ。」
係員 「駄目だ。事務所に行ってリコンファームして来い。」
憤慨しながら、事務所に行く。
私 「チェックインしようとしたら、リコンファームしてないから事務所に行けと言われた。」
事務員 「いや、リコンファームはいらない。このままで大丈夫だ。」
私 「何だってー。また列に並び直すのか。」
事務員 「それは済まない。私が一緒に行こう。」
再びチェックインカウンターの前へ。
事務員 「ここで待て。」
列の一番前に私たちを連れて行く。
白人観光客 「おい。割り込むな。」
私 「ごめんなさい。(俺が悪いんじゃないのに。とほほ。)」

 踏んだり蹴ったりだが、まあここはアフリカだから仕方ない。空港は停電しているらしく、ボーディングパスは紙の座席表を見ながらの手書き発行だった。駐車場に戻りうろうろしているとBwana Mzeeが声をかけてきた。11時30分の約束だったが、11時には来ていたそうだ。かなりきっちりした仕事のできる人だ。偉い。

 無事に車を引き渡し、別れの挨拶をして手荷物検査場へ向かう。そこには普通のおばさんにしか見えないがたぶん空港職員の黒人女性が二人居て、荷物を開けろと言う。停電でX線透視装置が使えないので全部手作業でやっているのだ。ちょろっとカバンの中を覗いただけで、OKが出る。いいかげんなものだ。

 飛行機に乗り込むと、フリーシートと言われる。要するに搭乗券の座席は関係なく、適当に座れと言うことだ。空いているのかと思ったら実は満席で、われわれ夫婦は結局離れた席になってしまった。今日はあらゆる事がいいかげんだ。飛行機は着陸の時と逆で、滑走路上を端まで走り、そこでUターンしてから加速して離陸する。青い海を飛び越え僅か10分のフライトでダルエスサラーム空港に着陸した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 2日 (金)

タンザニアの旅30(完結) 行列また行列

10月7日(土)~8日(日)

  ダルエスサラーム空港に到着したのは昼過ぎ。スーツケースが邪魔なので、先にチェックインを済ませてしまうおうと思ったが、カウンターの開く時間は出発の2時間前(14時30分)だという。おなかが空いたが食べる所は2階のレストランしか無さそうだ。2階へのアクセスは階段しかなく、スーツケースを持って上がる気はしないが仕方ない…。そこへマサイの服を着た黒人がやってきて荷物を運んでくれると言う。チップ用の小銭が残っていないのでと断ると、これはレストランの無料のサービスだからチップはいらないというので、ありがたく運び上げてもらう。やせ型体型の若者だが、両手にスーツケースを持って、ひょいひょいと階段を駆け上がっていく。

 レストランの中は手前が軽食、奥がビュッフェになっている。軽食はあまり大した物が無かったのでビュッフェを選択。料理はカレーやピラフなど充実しており、味もまあまあいける。しかしデザートはあまり美味しくなかった。タンザニア人のウエイトレスは、まだ食べかけの皿まで片づけようとするので何度も制止する。有能なスタッフは準備が早く、そうでない人は片づけが早すぎるのは万国共通か。ここも経営者はインド系のようで、フロアを監視したり、スタッフを叱りつけたりしている。支払はクレジットカードが使えた。

 食事が終わって、再び荷物を運んでもらい、1階へ。土産物店を覗くが欲しいと思う物は無く、食料品のキオスクでお菓子類を物色する。菓子は殆どが南アフリカや中東、アジア製でタンザニアの産物は透明なビニール袋に入ったポテトチップとか、ちょっと土産にはなりそうに無い物。慎重に産地を確認しながら主として南アフリカ製のお菓子を買っていくことにした。ここはクレジットカードは不可で、USドルは使えるがレートは悪い。菓子類の値段はだいたい日本と同じかやや高いぐらい。すなわち現地の人にとってはあまりにも高価である。

 買い出しも終わり、14時30分が近づいた。空港建物への出入り口には荷物のチェックがあり人でごった返しているが、良く見るとただ立っているだけの人が多い。人込みをかき分けてさっさと荷物のチェックを受ける。中に入るとカウンターの前には既に長蛇の列ができている。1時間近く並んでようやくチェックインを済ませる。さすがに国の玄関口の空港は停電しておらず、ドバイ経由関西空港までまとめて搭乗券を受け取る事ができた。

 次は出国手続きだが、ここも遅々として進まない。特に我々外国人の手続きをする職員の仕事が異様に遅く、他のブースの何倍も時間がかかっている。回りの白人旅行者もイライラしている。ようやく出国手続きが済んだ時にはすでに午後4時を過ぎていた。2階の国際線出発待合室に上がると、予想外に充実した免税店があった。しかし待合室と搭乗口との間には最終の手荷物検査場があり、そこにも長蛇の列が出来ている。ここはアフリカ。たとえチェックインを済ませ、出発待合室にたどりついていても安心できない。離陸の時間になれば人が揃わなくても出発してしまう可能性がある。結局免税店を覗く余裕は無かった。列に並んで手荷物検査場を通りすぎた時にはすでに離陸の5分前。もちろん搭乗が始まっており、そのままブリッジを渡り飛行機へと進む。

 旅の終わりの余韻を感じる余裕も無いまま、飛行機はドバイへ向かって離陸して行く。そんな所もアフリカらしい。ドバイまで5時間30分。ターミナルへはバス移動だったので、一瞬だけドバイの空気を吸う事ができた。帰りの乗り継ぎは約4時間。免税店で土産物を買い、千葉県在住のパキスタン人の男性と話しをしたりで、行きほどは時間をもてあまさなかった。ドバイの離陸時刻はなんと午前2時50分。(日本では午前7時50分) 9時間30分のフライトで関西空港に午後5時20分に到着。1時間20分の乗り継ぎ時間の間に、入国手続き、荷物の受け取り、国内線出発カウンターへの移動、チェックイン、手荷物検査とやる事が多いが、すべてさくさくと終わり、途中スタバでコーヒーを飲む余裕も。さすが日本人は仕事が速いと改めて思う。羽田空港からは、モノレール、山手線、東北新幹線を乗り継ぎ、宇都宮から日光線の終電で日光へ。ヌングイを出てから33時間、ダルエス離陸から25時間の長い道程。ふらふらになりながら23時30分にようやく自宅へたどりついた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 8日 (日)

タンザニアの写真集(2)

 タンザニアの旅 シリーズで使用した写真の写真集を公開しました。このリンクの他、左サイドバーの下の方から、見る事ができます。新しい写真は無いのですが、キャプションは全部新しくつけてあります。タンザニアの写真集(1)と併せてお楽しみ下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月16日 (月)

「スワヒリ都市の盛衰」を読んだ

 2006年のタンザニア旅行でお世話になった、Japan Tanzania Tours (JATAツアーズ) 様では、メールマガジン「メール★BARAKA」を発行しています。その105号の中で、「スワヒリ都市の盛衰」という本が紹介されていました。スワヒリ語に親しむ人間としては、是非とも読んでおきたいと思い、早速購入しました。本文わずか87ページの薄い本ですが、内容はとても充実しています。

 タンザニア旅行の時、ザンジバル島ストーンタウンの驚嘆の家を訪れました。博物館の見学の中で、この地域とアラブ、インド、ポルトガル、イギリスといった諸国との関係について学び、スワヒリ語に取り込まれている外来語も、古くはアラビア語から、そしてその後ポルトガル語、そして英語と変遷してきた事など、多少は知識として持っていたつもりでしたが、頭の中はきちんと整理できていませんでした。

 スワヒリとは、アラビア語で海岸を意味するサワーヒルが転じたもの。東アフリカの沿岸地域の総称です。植民地化によってアフリカ諸国の現在の国境が定められるよりももっともっと古くから、交易を中心として多くの都市群が発展していました。インド洋地域とスワヒリ都市との交易の歴史は古く紀元前後にさかのぼる事ができるそうです。この頃から、アラブのイスラム世界やインド亜大陸との交流や、人種の融合が進んでいたそうです。ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインド洋に現れたのは、15世紀末。オマーンによるポルトガルの駆逐が17世紀末。19世紀から欧米諸国の進出が本格的になり、19世紀末には植民地支配による東アフリカの分割が行われます。現在の東アフリカ諸国の国境はこの時に各国の都合で決められた物を引きずっているのです。イタリア領ソマリランドがソマリアに、イギリス領東アフリカがケニアに、ドイツ領東アフリカがタンガニーカに、ポルトガル領東アフリカがモザンビークにといった具合です。イギリスの保護領となっていたザンジバル島は、1963年にアラブ系の政権により独立をした後、1964年にアフリカ人勢力による革命を経て、タンガニーカと合併してタンザニア連合共和国となりました。

 欧米諸国が東アフリカに至るはるか前から、奴隷貿易は行われていました。奴隷を集めたのは同じ黒人の首長たち。奴隷をアラブやインドに売り渡したのは同じアフリカ人であるスワヒリ商人でした。そう考えると、現在のタンザニア連合共和国はかつて奴隷に取られた側と、売り渡した奴隷商人側が合流して、奴隷商人側の言葉である「スワヒリ語」を国語として成り立っているという、なかなか複雑な背景がある事がわかりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)