カテゴリー「タンザニアの旅」の35件の記事

2015年5月23日 (土)

タンザニアを知るための60章 第2版

 初めて訪れる国に行く前には、たいてい明石書店のエリア・スタディーズ シリーズを読んでおくのが習わしとなっています。同シリーズのタンザニア編である「タンザニアを知るための60章」には、2005年のタンザニア旅行でお世話になったJATA toursの根本さんが編著に携わっていらっしゃいます。この本の第2版が発行されたと、JATA toursのメールマガジンで知りさっそく購入しました。
 エリア・スタディーズは国ごとにけっこう面白いのと、著者の興味範囲に偏ってしまっていて今一つなものとが玉石混淆なのですが、このタンザニア編が文句無しに面白いです。その理由は内容の豊富さにあります。産業、政治、住民生活、音楽、交易活動などなど。タンザニア好きの方々が寄り集まって記した一つ一つの章は素晴らしく魅力的です。
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2011年7月 1日 (金)

書評 「タンザニアに生きる―内側から照らす国家と民衆の記録」

 今回御紹介する「タンザニアに生きる―内側から照らす国家と民衆の記録」は、2006年のタンザニア旅行の計画で大変お世話になった Japan Tanzania Tours ( JATA Tours ) を経営されている根本利道さんが書かれたものです。JATA Tours ホームページに掲載されている、ダルエスサラーム通信 ( Habari za Dar es Salaam ) などから、選ばれた記事がテーマ別に編集されています。タンザニアの社会・経済の中に身を置き、その国の内側から見た国の姿を描き出している、非常に希有な本です。

 著者は1975年に初めてタンザニアを訪れ、1984年に、ダルエスサラーム大学に入学。その後ダルエスサラームで旅行者を開業し現在まで居住しています。タンザニアに住む邦人や、タンザニアを訪れようとする取材斑、個人旅行者の手配業務の他、タンザニアの農村に滞在するオルタナティブツアーの企画募集なども行い、タンザニアと日本を繋ぐ架け橋としての役割を果たしています。(しかし、この本を読んで改めて、すごい方だなあと感嘆したのです。)

 アフリカに興味を持ち、勉強しようとすると、アフリカの歴史が「世界史」の中から欠落している事がわかります。西欧人にとっては暗黒大陸だとしても、そんな呼び名とは無関係に、東アフリカはアラブ諸国やインドなどと、はるか昔から交易などを通じて密接な関係を築いてきました。これまでにも紹介してきた、「タンザニアを知るための60章」や、「スワヒリ都市の盛衰」などの書籍と、「タンザニアに生きる」 を併せて読む事で、タンザニアという国に対する理解を深めることができた、そんな気がします。

 今回の本では、タンザニアの政治についても詳しく書かれています。過去の総選挙ごとの節目に書かれた記事を読んでいくことで、良く理解できます。今まで何となく、タンガニーカ(本土)側に比べて、ザンジバルは総選挙の度に暴動が起きたりして不安定なんだなあと思っていましたが、その背景の政治の流れがようやく理解できました。

 途上国ではびこる不正や汚職…、ばればれの田舎芝居。残念ながら日本でも状況は似たようなものみたいです。

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2011年5月26日 (木)

書評 「アジアで出会ったアフリカ人」

 久しぶりのアフリカネタです。

 「アジアで出会ったアフリカ人―タンザニア人交易人の移動とコミュニティ」という本を購入し読みました。(右サイドバーの下の方にある「最近読んだ本」の中にも追加しました。)Japan Tanzania Tours (JATA tours)さんのメールマガジンでご紹介いただきました。

 この本は、「マラウイを知るための45章」の著者、「タンザニアを知るための60章」の共著者である、立教大学 栗田和明 教授 が書かれた本です。栗田教授の個人ホームページ アフリカ案内 は大変楽しいアフリカの情報が溢れています。

 アフリカに関する本ですが、野生動物などの自然や文化に関する事は全く出てきません。本に書かれている事は、殆どの日本人にとってはあまり関心が無いことかと思います。それだけに、大変に貴重な研究です。

 タンザニアを中心とした東アフリカと、タイ、香港などとの間で個人交易をしている人々や、更にはタンザニア国内、タンザニアとマラウイなどの周辺国との間で交易をしている人々の姿を通して、インフォーマルな経済活動の実情や、それに従事する人たちの生活を浮き彫りにしていく物です。マーケットの一区画の家賃が思ったよりも高いのに驚きました。マラウイの首都リロングウェ旧市街のブワイラ通りで、15平方メートル程の広さの店舗の賃貸料が3万MKw(マラウイクワチャ)≒2万2000円 と書かれていました。私が訪問した2003年当時と比べてどの程度物価が変動したのかわかりませんが、学校の先生の月給の2ヶ月分以上の金額です。

 アフリカの普通の住民が、近距離の交易で資金を貯め、国際交易に乗り込んでいくたくましい姿には、ああ、人間ってちょっとした知恵と勇気があれば結構色々な事が出来るのだなあと感心させられます。

 本を読みながら、首都リロングウェマラウイ各地で訪問したマーケットの賑わい、品物、安食堂の料理、そして独特の匂いを思い出し大変懐かしくなりました。あのマーケットに並べられていた、Tシャツが、サンダルが、アフリカ人によってアジアで買い付けられ、空路や海路でダルエスサラームに運ばれ、そこから陸路で国境を越えてたどりついたのだと思うと、感慨深いものがあります。

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2009年2月16日 (月)

「スワヒリ都市の盛衰」を読んだ

 2006年のタンザニア旅行でお世話になった、Japan Tanzania Tours (JATAツアーズ) 様では、メールマガジン「メール★BARAKA」を発行しています。その105号の中で、「スワヒリ都市の盛衰」という本が紹介されていました。スワヒリ語に親しむ人間としては、是非とも読んでおきたいと思い、早速購入しました。本文わずか87ページの薄い本ですが、内容はとても充実しています。

 タンザニア旅行の時、ザンジバル島ストーンタウンの驚嘆の家を訪れました。博物館の見学の中で、この地域とアラブ、インド、ポルトガル、イギリスといった諸国との関係について学び、スワヒリ語に取り込まれている外来語も、古くはアラビア語から、そしてその後ポルトガル語、そして英語と変遷してきた事など、多少は知識として持っていたつもりでしたが、頭の中はきちんと整理できていませんでした。

 スワヒリとは、アラビア語で海岸を意味するサワーヒルが転じたもの。東アフリカの沿岸地域の総称です。植民地化によってアフリカ諸国の現在の国境が定められるよりももっともっと古くから、交易を中心として多くの都市群が発展していました。インド洋地域とスワヒリ都市との交易の歴史は古く紀元前後にさかのぼる事ができるそうです。この頃から、アラブのイスラム世界やインド亜大陸との交流や、人種の融合が進んでいたそうです。ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインド洋に現れたのは、15世紀末。オマーンによるポルトガルの駆逐が17世紀末。19世紀から欧米諸国の進出が本格的になり、19世紀末には植民地支配による東アフリカの分割が行われます。現在の東アフリカ諸国の国境はこの時に各国の都合で決められた物を引きずっているのです。イタリア領ソマリランドがソマリアに、イギリス領東アフリカがケニアに、ドイツ領東アフリカがタンガニーカに、ポルトガル領東アフリカがモザンビークにといった具合です。イギリスの保護領となっていたザンジバル島は、1963年にアラブ系の政権により独立をした後、1964年にアフリカ人勢力による革命を経て、タンガニーカと合併してタンザニア連合共和国となりました。

 欧米諸国が東アフリカに至るはるか前から、奴隷貿易は行われていました。奴隷を集めたのは同じ黒人の首長たち。奴隷をアラブやインドに売り渡したのは同じアフリカ人であるスワヒリ商人でした。そう考えると、現在のタンザニア連合共和国はかつて奴隷に取られた側と、売り渡した奴隷商人側が合流して、奴隷商人側の言葉である「スワヒリ語」を国語として成り立っているという、なかなか複雑な背景がある事がわかりました。

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2007年7月 8日 (日)

タンザニアの写真集(2)

 タンザニアの旅 シリーズで使用した写真の写真集を公開しました。このリンクの他、左サイドバーの下の方から、見る事ができます。新しい写真は無いのですが、キャプションは全部新しくつけてあります。タンザニアの写真集(1)と併せてお楽しみ下さい。

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2007年2月 2日 (金)

タンザニアの旅30(完結) 行列また行列

10月7日(土)~8日(日)

  ダルエスサラーム空港に到着したのは昼過ぎ。スーツケースが邪魔なので、先にチェックインを済ませてしまうおうと思ったが、カウンターの開く時間は出発の2時間前(14時30分)だという。おなかが空いたが食べる所は2階のレストランしか無さそうだ。2階へのアクセスは階段しかなく、スーツケースを持って上がる気はしないが仕方ない…。そこへマサイの服を着た黒人がやってきて荷物を運んでくれると言う。チップ用の小銭が残っていないのでと断ると、これはレストランの無料のサービスだからチップはいらないというので、ありがたく運び上げてもらう。やせ型体型の若者だが、両手にスーツケースを持って、ひょいひょいと階段を駆け上がっていく。

 レストランの中は手前が軽食、奥がビュッフェになっている。軽食はあまり大した物が無かったのでビュッフェを選択。料理はカレーやピラフなど充実しており、味もまあまあいける。しかしデザートはあまり美味しくなかった。タンザニア人のウエイトレスは、まだ食べかけの皿まで片づけようとするので何度も制止する。有能なスタッフは準備が早く、そうでない人は片づけが早すぎるのは万国共通か。ここも経営者はインド系のようで、フロアを監視したり、スタッフを叱りつけたりしている。支払はクレジットカードが使えた。

 食事が終わって、再び荷物を運んでもらい、1階へ。土産物店を覗くが欲しいと思う物は無く、食料品のキオスクでお菓子類を物色する。菓子は殆どが南アフリカや中東、アジア製でタンザニアの産物は透明なビニール袋に入ったポテトチップとか、ちょっと土産にはなりそうに無い物。慎重に産地を確認しながら主として南アフリカ製のお菓子を買っていくことにした。ここはクレジットカードは不可で、USドルは使えるがレートは悪い。菓子類の値段はだいたい日本と同じかやや高いぐらい。すなわち現地の人にとってはあまりにも高価である。

 買い出しも終わり、14時30分が近づいた。空港建物への出入り口には荷物のチェックがあり人でごった返しているが、良く見るとただ立っているだけの人が多い。人込みをかき分けてさっさと荷物のチェックを受ける。中に入るとカウンターの前には既に長蛇の列ができている。1時間近く並んでようやくチェックインを済ませる。さすがに国の玄関口の空港は停電しておらず、ドバイ経由関西空港までまとめて搭乗券を受け取る事ができた。

 次は出国手続きだが、ここも遅々として進まない。特に我々外国人の手続きをする職員の仕事が異様に遅く、他のブースの何倍も時間がかかっている。回りの白人旅行者もイライラしている。ようやく出国手続きが済んだ時にはすでに午後4時を過ぎていた。2階の国際線出発待合室に上がると、予想外に充実した免税店があった。しかし待合室と搭乗口との間には最終の手荷物検査場があり、そこにも長蛇の列が出来ている。ここはアフリカ。たとえチェックインを済ませ、出発待合室にたどりついていても安心できない。離陸の時間になれば人が揃わなくても出発してしまう可能性がある。結局免税店を覗く余裕は無かった。列に並んで手荷物検査場を通りすぎた時にはすでに離陸の5分前。もちろん搭乗が始まっており、そのままブリッジを渡り飛行機へと進む。

 旅の終わりの余韻を感じる余裕も無いまま、飛行機はドバイへ向かって離陸して行く。そんな所もアフリカらしい。ドバイまで5時間30分。ターミナルへはバス移動だったので、一瞬だけドバイの空気を吸う事ができた。帰りの乗り継ぎは約4時間。免税店で土産物を買い、千葉県在住のパキスタン人の男性と話しをしたりで、行きほどは時間をもてあまさなかった。ドバイの離陸時刻はなんと午前2時50分。(日本では午前7時50分) 9時間30分のフライトで関西空港に午後5時20分に到着。1時間20分の乗り継ぎ時間の間に、入国手続き、荷物の受け取り、国内線出発カウンターへの移動、チェックイン、手荷物検査とやる事が多いが、すべてさくさくと終わり、途中スタバでコーヒーを飲む余裕も。さすが日本人は仕事が速いと改めて思う。羽田空港からは、モノレール、山手線、東北新幹線を乗り継ぎ、宇都宮から日光線の終電で日光へ。ヌングイを出てから33時間、ダルエス離陸から25時間の長い道程。ふらふらになりながら23時30分にようやく自宅へたどりついた。

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2007年1月30日 (火)

タンザニアの旅29 さよならザンジバル

10月7日(土)

 朝食を食べるために外に出ると、部屋当番の女の子二人が箒で掃除をしているところだった。ベッドメーキングのお礼を言って、チップをあげる。今朝の朝食もメニューは同じだが、この白いスパニッシュオムレツを食べるのもこれが最後だ。

Escudo_1  エスクードに荷物を載せ、空港へ向け出発。ヌングイからストーンタウンへ向かう道もこれでもう4回目だ。空港へはストーンタウンの手前で左へ曲がる。そこから先がまた難しい。いくつものラウンドアバウトを通り抜け、南へ進む。Airportの看板が出ていないか目を凝らすが見当たらない。山勘で左へ入ってみると、これが大当たりで、ばっちり迷わずザンジバル空港に着くことができた。だんだん勘も冴えてきたようだ。

 道に迷わなかったので11時前に空港に到着した。Bwana Mzee とは11時30分にレンタカーを返す約束だったので、とりあえずチェックインを済ませる事にした。こことダルエスサラームの間にはいくつかの航空会社が就航しており(といってもセスナ機みたいな飛行機だが)、客引きも盛んだ。もう航空券を持っているからと断って、プレシジョン航空のカウンターに行く。

係員 「前の便が空いているからそれで行くか。」
(確かにここにいても土産も買えないし暇だ。)
私 「そうします。」
係員 「あー、お前たちの名前はこの乗客リストに印刷されていないから乗れない。」
私 「馬鹿いうな、ちゃんとここに航空券があるだろう。」
係員 「リコンファームはしたのか。」
私 「ダルエスサラーム空港で聞いたらリコンファームしなくていいと言っていたぞ。」
係員 「駄目だ。事務所に行ってリコンファームして来い。」
憤慨しながら、事務所に行く。
私 「チェックインしようとしたら、リコンファームしてないから事務所に行けと言われた。」
事務員 「いや、リコンファームはいらない。このままで大丈夫だ。」
私 「何だってー。また列に並び直すのか。」
事務員 「それは済まない。私が一緒に行こう。」
再びチェックインカウンターの前へ。
事務員 「ここで待て。」
列の一番前に私たちを連れて行く。
白人観光客 「おい。割り込むな。」
私 「ごめんなさい。(俺が悪いんじゃないのに。とほほ。)」

 踏んだり蹴ったりだが、まあここはアフリカだから仕方ない。空港は停電しているらしく、ボーディングパスは紙の座席表を見ながらの手書き発行だった。駐車場に戻りうろうろしているとBwana Mzeeが声をかけてきた。11時30分の約束だったが、11時には来ていたそうだ。かなりきっちりした仕事のできる人だ。偉い。

 無事に車を引き渡し、別れの挨拶をして手荷物検査場へ向かう。そこには普通のおばさんにしか見えないがたぶん空港職員の黒人女性が二人居て、荷物を開けろと言う。停電でX線透視装置が使えないので全部手作業でやっているのだ。ちょろっとカバンの中を覗いただけで、OKが出る。いいかげんなものだ。

 飛行機に乗り込むと、フリーシートと言われる。要するに搭乗券の座席は関係なく、適当に座れと言うことだ。空いているのかと思ったら実は満席で、われわれ夫婦は結局離れた席になってしまった。今日はあらゆる事がいいかげんだ。飛行機は着陸の時と逆で、滑走路上を端まで走り、そこでUターンしてから加速して離陸する。青い海を飛び越え僅か10分のフライトでダルエスサラーム空港に着陸した。

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2007年1月27日 (土)

タンザニアの旅28 ヌングイのサンセット

10月6日(金)
Bedmaking  バンガローの部屋に戻ると、今日も近くに咲いている花を使って凝ったベッドメーキングが施されている。担当の女の子たちに会ったらお礼を言わなくては。

Henna Mtoto  まだまだ明るいので敷地内を散策。黒人の婦人が二人通りがかったので、妻が呼び止める。ヘンナができるかと尋ねるとできるという。昨日は右腕にやってもらったので、左腕にもやってもらうことにした。今日は花の模様。かなり精巧に描いていく。昨日のおばさんよりも上手だ。彼女たちも小さな子供を連れて歩いている。やんちゃの子供は隙を見て悪戯しようとするので、お母さんはヘンナを描いたり、子供を叱ったりで忙しい。
※後日談 日本に帰ってから10日ぐらいしてから、ヘンナの部分が赤く腫れて盛り上がり、強烈に痒くなった。接触性皮膚炎、いわゆるかぶれである。以前にやってもらったときは大丈夫だったとの事だが…。もちろん、今後ヘンナ色素を含む毛染め剤などの使用も禁止である。

Sunset  再び部屋にもどると窓から西日が差し込んでいる。バルコニーに出てみるとちょうど日が沈む所だった。沖合にはサンセットクルーズを楽しむダウ船が静かに航行している。(帆船だから音がしない。) カメラを取り出して撮影してみる。デジタルカメラの利点で、いろいろ条件を変えて、その場で仕上がりを見ながら何枚か撮影してみたが結構難しい。露出の調節や、海と空の配分、通る船との位置関係など、なかなかうまくいかないものだ。この写真は海に反射する光線と船のシルエットがメインに、写真集の26枚目は太陽の輪郭や空と雲の色がメインなるように撮影してみた。

 やがて日も暮れ、レストランでアフリカ最後の夕食。陽気なウエイターとのやりとりを楽しみ、料理とキリマンジャロビールを賞味する。楽しかったタンザニアの旅もいよいよ終わりが近づいた。明日は帰国だ。シュノーケリングで疲れたのでゆっくり眠ろう。

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2007年1月24日 (水)

タンザニアの旅27 ムネンバ島シュノーケリング

10月6日(金)

Nungwi_beach  7時30分に朝食。メニューは昨日と同じだが、フルーツの種類が少しだけ変わっている。水着に着替えて、8時30分に海岸に集合した。我々以外はみな白人。足のサイズに合うフィンを選び、ゴーグルとシュノーケルを一つずつ確保する。が、いっこうに出発する気配が無い。アフリカ人のスタッフは何の説明もしないで海の方を眺めている。(アフリカ人は仕事が…)ようやく9時すぎに船が来たらしい。引き潮なので船は岸の近くまで来る事ができないので、50mほど浅瀬を歩いて船に向かう。全員乗り込んだらようやく出発だ。

 船はヌングイの西海岸を出発し、北側の岬を回り込んで、東海岸のムネンバ島に向かう。木造船に船外機を付けただけの船はあまりスピードが出ない。間近にダウ船が見える。(写真集の24枚目) 岬近くの浅瀬ではたくさんの女性たちが水に浸かっている。海草か何かを採っているようだ。漁師町の風景は日本と似通っている。西側の海は穏やかだったが、東側は外海なのでうねりが出てくる。ちょっと船酔いが始まる。

Dolphin  その時 "Dolphin !"の叫び声。船の近くをイルカの群れが泳いでいる。船酔いなどと言ってはいられない。揺れる船の上で足を踏ん張って写真を撮るが、なかなか良いタイミングをとらえる事ができなかった。イルカたちは数分間我々の船と併走すると波間に消えて行った。頑張って写真を撮ったおかげで船酔いはますますひどくなってしまった。

 途中船の船外機が停まってしまう。予備の船外機もなかなか始動しない。数分間漂流している間に他の船が追い抜いていく。何度か止まったり動いたりを繰り返し、ようやく目的地のムネンバ島に到着したのは既に11時過ぎだった。

Mnemba  船が止まったので船酔いはちょっと落ちついてきた。珊瑚礁の海は透き通り、信じられないほど美しい。ここで一本目、30分間のシュノーケリングタイム。フィンとゴーグルを付けて海に入る。私は1年前にタイのパンガン島でシュノーケリングをしたのが唯一の経験。その時は立てば足が着くぐらいの水深だった。船上からは浅く見えた海だが、入ってみるとかなり水深が深く、5m以上ありそうだ。ゴーグルのフィッティングも悪かったので、海水が入り込んで来てしまった。とりあえず体制を建て直そうと、水面から顔を出しながら船まで泳いで戻る。すると妻が慌てた様子で近づいてきた。溺れていると思ったらしい。助言に従いライフジャケットを付けると、確かに気が楽になった。その後は、じっくりと美しい魚たちや、サンゴの様子を観察する事ができた。周囲の白人たちは皆ベテランらしく、深くまで潜って海底に触ったりして楽しんでいる。

 少し場所を移して2本目。水中の光景は本当に美しい。いつまでも眺めていたいとも思うが、案外水は冷たく、だんだん寒くなってきたので船に戻る。ハシゴを上ろうとするが、足が疲れていてなかなか力が入らない。もがいていると、船の上から白人の女性が引っ張り上げてくれた。完全にグロッキーだ。

 ザンジバル島側のビーチに上陸して昼食となる。チャパティや、魚のバーベキューなどが用意されていた。しかし疲労困憊で全く食べる気がしないので、岩陰で横になって休む。ようやく少し体が楽になった。

 帰りの船では醉う事も無く、午後4時過ぎに無事にヌングイに帰着した。とにかく疲れたが楽しかった。しかしもうちょっと泳ぐ練習や、体力トレーニングをしないと…。

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2007年1月21日 (日)

タンザニアの旅26 ストーンタウン4 ヘンナと露店バーベキュー

10月5日(木)

Stonetown7  午後6時前になり、だいぶ日が暮れてきた。妻がガイドにヘンナをやってくれる所が無いかと尋ねると、快く案内してくれた。狭い路地でカンガを売っているお店の女性に声をかける。さっそく値段交渉。5000シリング(約500円)で交渉成立。ここでガイドは後でまた戻ってくると言って出かけて行った。ヘンナとは植物性の色素で毛染めにも使われている。この色素を使ってボディペインティングしてもらうのである。見本帳を見ながら気に入った模様を選ぶ。女性は小さな容器に色素を溶かし、マッチぐらいの細い棒を使って模様を描いていく。筆ではなく棒を使うのはアラブ文化の影響だろうか。

Stonetown8  小さな男の子が回りでうろちょろしている。女性の子供のようだ。お母さんの気を引こうとして、色素の容器をいたずらしようとしたり、あたりをはい回ったり落ちつかない。母親もだんだんイライラしてきて、ヘンナをしてもらっている妻も気が気ではない様子なので、写真を撮ったり、抱き上げたりして遊んであげる。鼻ペシャで、目がクリクリしていて可愛い。しかし地べたで転がって遊んでいるものだから手足も服もかなり汚いぞ。まっいいか。近くにいる女の子は姉のようだが、こちらは大人しくて、恥ずかしがり屋みたい。話しかけてもうつむいてしまう。そうこうするうちにガイドも戻ってきてヘンナ描きも終わった。

 近くの店で小さな動物フィギュアのアクセサリーを購入。値段交渉はスワヒリ語で挑戦。かなりディスカウントしてもらう事ができた。

 House of Wonder の前に戻るとガイドとはお別れだ。押しかけガイドだったが、色々とお世話になり、効率よくストーンタウンを楽しむ事ができた。知識も豊富だった。チップとして5000シリング渡すが、もうちょっと欲しいというので、いくら欲しいかと聞くと7000シリングだという。はっきりしていていい。あいにく大きな札しか残っていない。考えた末、2USドル(約2600シリング)を追加であげる事にした。

 House of Wonder の海側には公園があって、日没と同時にシーフードのバーベキュー屋台が多数開店する。今日の夕食はここで食べる。白人観光客も集まってきて、大いに賑わっている。縁日みたいだ。

 サトウキビの絞り汁も売っていた。確か50シリング(約5円)だったか驚くべき安さである。氷も入っていて、甘くて美味しい。(しかし後から思ったが、この氷、ミネラルウォーターで作っているはずも無いから本当は危険な飲み物である。幸い何事も起こらなかった。) 屋台で希望のネタを注文するとその場でバーベキューにして、席に運んでくれる。座席は岸壁のぎりぎりに作られており、背もたれなんてついていないから、海側の席の人は気をつけないと背中から海に落ちてしまう。港を見ながら食べる焼きたてのシーフードの味は格別だ。やっぱり海はいいね。

 午後7時ごろまで遊んでしまい、昨日以上に帰りが遅くなった。エスクードを運転してヌングイに戻る。夜の運転はやっぱりかなり疲れる。最初にいきなり倉庫街みたいな所に入り込んでしまい、危険を感じてあわててUターンする。街灯も無い道路だが、道端にはたくさんの人が歩いている。夜の黒人は保護色になって、闇に同化している。道は概ねすれ違い可能な幅があるが、橋の所だけ狭くなっていたりする。途中からは昨日と同じ道。昨日交通違反で捕まりそうになった Mahonda のラウンドアバウトは今日は間違えずに大回りで通過。しかし今日は警察はいなかった。その後のもう一カ所の右折は相変わらず自信が持てず、何度か停まって歩行者に確認しながら進む。Amaan Bangalows にたどりついたのは8時40分だった。

Bed1  部屋に入ると素敵にベッドメーキングされている。タオルで白鳥を作り、花が飾りつけられ、花びらが散らしてある。掃除を担当する若い女の子たちの力作のようだ。Asante sana. ありがとう。

 さあ、明日は海で遊ぼう。Lala salama. おやすみなさい。

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